原文 :大慧よ、身見には二種あり。俱生及び妄想と謂う。縁起妄想の如く、自性妄想の如し。
釈:楞伽経において仏は身見に二種あると説きたまう。一つは俱生身見、五蘊本来具有の身見、即ち意根の身見なり。これを断除すべし。もう一つは妄想身見なり。妄とは虚妄、不実、正真ならざるを指す。想とは了別し相として執取し、実体として執取し、我及び我所として執取するをいう。故に妄想する時も身見あり、妄想身見も断除すべし。
妄想には多種あり。縁起妄想とは、種々の因縁によって生じた法を如実に見ず、虚妄にこれらの縁起法を我及び我所有と執取し、これらの法が全て因縁所生で虚妄無常・生滅変異・苦なることを知らず。縁起妄想には意識の妄想のみならず、更に意根の妄想あり、両者の妄想を共に断除し、再び縁起法を我及び我所有と妄想せざるべし。
自性妄想とは、一切の法に自体性・真実性あり、依拠すべきものと見做し、執取して我及び我所有と為すをいう。この妄想には意識の妄想と意根の妄想共存し、両者を断除して初めて我見を断ずる者となる。各種の妄想においては、意根の妄想を主とし、意識の妄想を従とす。
原文 :譬えば縁起自性に依るが如し。種々の妄想自性を計著して生ず。彼は有に非ず、無に非ず、有無に非ず。実無き妄想相なるが故に、凡夫の妄想、種々の妄想、自性相を計著す。熱時の陽炎の如く、鹿が水を渇するが如し。これ須陀洹の妄想身見なり。彼は人無我をもって摂受し、無性を以て久遠の無知計著を断除す。
釈:縁起自性に執着し、縁起法に自性ありと計度する時、種々の妄想が生起し、普遍的に縁起法を計量執着す。縁起法を非有・非無・不有不無・即有即無と妄想す。これらは皆実体なき妄想幻相なり。愚かな凡夫衆生が縁起法に対し種々の妄想を生じ、縁起法に自体的真実性ありと執着し、その相貌を実体と見做し我所有と為す。
恰も炎天の砂浜に現れる陽炎を、渇した鹿が真実の水と錯覚するが如し。凡夫は渇鹿の如く、実体なき幻化の五陰身を真実の我及我所と見做し、不断に執着し貪愛を生ず。我見を断じた須陀洹は、この妄想身見を如実に観照し、五陰身に我我所なきことを覚知し、無始劫来の五陰身への無知執着を断除せり。
上記の妄想身見は依然として意根の身見を主とし、意識の身見を従とす。文中至る所に種々の妄想自性計著・自性相計著・久遠の無知計著とあるが、これらは皆意根の妄想身見を指す。意根の妄想身見より意識の妄想身見が生起す。意識の妄想身見は久遠ならず、一世限りにして滅す。意根が滅せざる故、来世の意識は再び妄想身見を生起せしむ。故に修行において根深き意根の問題を解決せざれば、修めたる所は皮毛のみに止まり、再生を免れず、功徳空しく捐てらる。
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