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日常法話

2019年07月08日    月曜日     第1開示 合計1682開示

楞伽経に説かれる身見

原文:大慧よ。身見には二種あり。倶生及び妄想と謂う。縁起妄想の如く、自性妄想の如し。

釈:楞伽経において仏は身見には二種あると説かれた。一つは倶生の身見であり、五蘊が生来より有する身見、すなわち意根の身見である。これは断除を要する。もう一つは妄想の身見である。妄とは虚妄、不実在、真実ならざることを指す。想とは了別し相として執取し、実体として執取し、我及び我の所有として執取することを意味する。それ故に妄想する際にも身見が生じ、妄想の身見も断除を要する。

妄想には多種あり、例えば縁起妄想とは、種々の因縁によって生じた法を如実に見ず、虚妄にこれらの縁起法を我及び我の所有として執取し、これらの法が全て因縁によって生じたものであり、虚妄で無常・生滅・変異・苦なるものであって、我及び我の所有ではないことを知らないことである。縁起妄想には意識の妄想のみならず、更に意根の妄想も含まれる。両者の妄想は共に断除されねばならず、縁起法を我及び我の所有と妄想してはならない。それは全く以て誤りである。

自性妄想とは、一切の法には自体的性質(自性)があり、実在性があり、依拠すべきものであり、頼るべきものであると見なし、それ故に我及び我の所有として執取することである。この種の妄想には意識の妄想のみならず、更に意根の妄想も含まれる。両者の妄想を共に断除して初めて我見を断つ者となる。種々の妄想の中では、意根の妄想が主であり、意識の妄想は従たるものである。

原文:譬えば縁起自性に依るが如し。種々の妄想自性の計著生ず。彼は有に非ず、無に非ず、有無に非ず。実なる妄想相無きが故に。愚夫の妄想、種々の妄想、自性相を計著する。熱時の炎の如く、鹿の水を渇する想の如し。これ須陀洹の妄想身見なり。彼は人無我を以て、無性を摂受し、久遠の無知計著を断除す。

釈:譬えば縁起自性に依拠し、縁起法に自性ありと執取した後には、種々の妄想が生起し、遍く縁起法を計度し執着する。縁起法は非有あるいは非無、不有不無、即有即無であると妄想する。これらの考えは全て実在しない妄想の幻相であり、愚痴なる凡夫衆生の妄想である。愚痴なる凡夫は縁起法に対し種々の妄想を生じ、縁起法に自体的実在性があると執着し、縁起法の全ての相貌を実体として、我及び我の所有として執取する。

恰も暑い時に砂浜に現れる虚妄の陽炎を、喉の渇いた鹿が真実に飲める水であると妄想するが如くである。凡夫は喉の渇いた鹿の如く、実体ならざる幻化の五陰身を真実の我及び我の所有と見做し、絶え間なくこれを執取し、生に貪り生に貪る。我見を断じた須陀洹の人は、このような妄想の身見に対し、如実に五陰身に我も我の所有もないことを観照し、五陰身には自体的性質が無いことを如実に覚知し、自らの無始劫以来の五陰身に対する無知なる執取性を断除する。

以上の妄想身見は、依然として意根の身見が主であり、意識の身見は従たるものである。文中至る所で種々の妄想自性の計著、自性相の計著、久遠の無知計著が説かれているからである。これらは全て意根の妄想身見を指し、意根の妄想身見によって意識の妄想身見が生起する。意識の妄想身見は久遠のものではなく、ただ一世のみで、その後は滅する。意根は滅せず、それ故に来世の意識は依然として妄想身見を生起せざるを得ない。それ故に修行において根深い意根の問題を適切に処理しなければ、修めるものは単に表面的なものに過ぎず、再生を繰り返し、その功徳は徒労に帰すのである。

——生如法師の開示
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楞伽経に説かれる倶生身見を断ずる方法

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