原文:大慧よ。倶生とは、須陀洹の身見なり。自他の身等を観察するなり。受想行識の四蘊は色相なきが故に、色相なきなり。色身は色相あるなり。色相生ずる時、色身を成ずるなり。能造と所造の故なり。展転して相因となる相の故なり。四大種及び色は集まらざるが故に、色相もまた集まらずして色身を成さず。ここにおいて須陀洨は有無の品を観じて現れず、身見は則ち断つ。かくの如く身見を断つて後、貪愛は則ち生ぜず。これをもって身見の相と名づく。
釈:仏は説きたまわく、大慧よ、いわゆる倶生の身見とは、須陀洨の人の断ずる身見にして、自己の身と他人の身等を観察するなり。この中、受想行識の四蘊は色相なく、色身にあらず。色身は色相あるなり。色相生ずる時、色身を成じ、四大種の造る所となり、色相は展転して色身を生ずる相にして、色身を成ずる因相なり。四大種は生じて後即ち滅し、集まって色相を成すこと能わず、色相もまた集まって色身を成すこと能わず。ここにおいて須陀洨の人は色身を観察する時、色身の有にあらず無にあらざることを証得し、有無にあらざることを観ず。かくの如くにして身見は断つ。
かくの如く身見を断ちて後、貪愛は生ぜず。以上に説くところは真実の身見の相なり。有にあらず無にあらず、また有無にあらず。有とは、相上に可見なるも、有にあらざるは、相は空しく散壊して生滅す。無とは、四大集まらざれば相もまた集まらず、無にあらざるは、相上に可見なり。有無にあらざるとは、有にあらず無にあらず、有無互いに摂し、虚仮の用あり、用もまた真ならず。
色身は諸々の色法より成り、諸々の色法とは種々の色相なり。種々の色相は四大の微粒子より成り、四大の微粒子は四大種より成る。前に表相を説き、後に実質と事実を説く。表面上、色身の相は存在し作用ありて真実の如く見ゆるも、実際には真実の色身相なく、虚妄にして空しく仮なるなり。例えば頭昏目眩の者、眼前に黒き点の狂い飛び乱るるを見るも、実際には何らの黒点もなし、見誤れるなり。黒点の有無を説くべからず、黒点の非有非無を説くべからず。色身の相もまたかくの如く、色身の有無および非有非無、非非有非非無を説くべからず。一切の諸法は四句を離れ、百非を絶つ。
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