原文:大慧よ。疑相とは、法に対する善き見解の相を得たが故に、及び先に述べた二種の身見(倶生身見と分別身見)という虚妄なる分別が断たれたが故に、法に対する疑いが生じず、他処に赴いて大師(仏陀)の見解が清浄であるか否かを確かめようとはしないことをいう。これを疑相と名づける。須陀洹(預流果)において断たれる。
釈:仏は説かれた。大慧よ、疑見の心相とは、すなわち心に法に対する如実知見の相を得た心相を指し、法の相貌を善く知り、法が理にかなっているか否かを善く弁え、さらに先に述べた倶生の身見と妄想の身見という虚妄なる分別が断たれたが故に、心の中に法に対する疑念が再び生じることがなく、法が果たして理に適っているか否かを疑うことがなくなる。心中の疑念が断たれたが故に、自らの見解が清浄であるか否か、法眼清浄を得たか否かを証明するために、他の場所に証拠を求めに行くことはない。このような狐疑(ぐずぐずとした疑い)の状態が疑相であり、初果の須陀洹人は既にこの疑相を断じている。
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