楞伽経原文:須陀洹は三結を断ず。貪痴生ぜず。若し須陀洹が是の念いを為すに、此の諸結我が成就せざる者とせば、応に二過有るべし。身見に堕ち、及び諸結断たず。
大慧仏に白し言く。世尊。世尊は多くの貪欲を説きたまう。彼は何れの貪を断つや。仏大慧に告げたまわく、女人を愛楽し、纏綿貪著して種々の方便をなし、身口の悪業を造り、現在の楽を受け、未来の苦を種く。彼は則ち生ぜず。所以は何ん。三昧正受の楽を得るが故なり。是の故に彼は断つ。涅槃に趣く貪断に非ず。
釈:仏は須陀洹が三つの結縛を断除し、貪愛と愚痴が生じないと説く。もし須陀洹が「これらの結縛を私は成就しなければ、二種の過失があるだろう。身見に堕ち、諸煩悩の結が断たれない」と心に念うならば。大慧が仏に申し上げた:世尊、世尊は衆生に多くの貪欲があると説かれましたが、須陀洹人はどの貪欲を断ったのでしょうか。仏は大慧に告げられた:女人を愛楽し、女人に纏綿貪着し、種々の手段方式を用い、身の悪行と口の悪行を造作し、現在の楽しみを受けて未来世の苦果を種く。この貪愛は須陀洹人が断じ、再び生じない。何故そうなのか。須陀洹人が我見を断つ観行を行う時に三昧の楽受があるため、女人の楽しみを貪る必要がない。故に貪愛が断じるのであって、涅槃に向かう楽の貪りを断じたのではない。
これは須陀洹人がある種の貪りが生じないことを説くのであって、全ての貪りが生じないのは三果人である。初果の身見三縛結が断除されると、異性に対する纏綿貪りが生じない。三昧の楽受があるが故である。所謂る三昧の楽受とは、初果を証得した時の禅定の覚受と覚明の現象である。故に初果を証するには必ず禅定がなければならず、未到地定を得て初果を証する時に初めて三昧の境界が現れる。これには禅定と我見を断つ智慧が含まれる。
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