衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年07月10日    水曜日     第1開示 合計1686開示

須陀洹人はいかなる貪欲を断じたのか?

楞伽経原文:須陀洹(スロータン)は三つの結びを断つ。貪りと痴は生じない。もし須陀洹が「これらの結びは私は成就していない」とこのように念じるならば、二つの過失があるはずである。身見に堕ち、および諸々の結びが断たれない。

大慧が仏に白して言う。「世尊よ、世尊は多くの貪欲があると説かれました。彼(須陀洹)はどの貪りを断ったのですか。」仏は大慧に告げられた。「女人を愛楽し、もつれ貪り執着して様々な手段や方法で、身体と言葉による悪業を造り、現在の楽しみを受け、未来の苦しみを種とする(その貪り)である。彼(須陀洹)にはそれは生じない。なぜならば、三昧の正受の楽を得るがゆえである。それゆえに彼はそれを断つのである。涅槃に趣く貪りを断ったのではない。」

釈:仏は須陀洹が三つの結びを断ち、貪愛と愚痴は生じないと説かれた。もし須陀洹が心に「この三つの結びを私はもし修して成就しなければ、二種の過失が生じるだろう。身見に堕ち、および諸々の煩悩の結びが断たれない。」というような念いがあるならば。大慧が仏に言う:「世尊よ、あなたはかつて衆生に多くの貪欲があると説かれましたが、須陀洹の人はどの貪欲を断ったのですか。」仏は大慧に告げられた、女人を愛楽し、女人に纏綿貪着し、種々の手段方法を用いて、身体の悪行と言葉の悪行を造作し、当の楽しみを享受し、未来世の苦果を種とする。この種の貪愛は須陀洹の人は断って、もはや生じない。なぜそうなるのか。須陀洹の人が観行して我見を断つ時に三昧の楽受があるため、女人の楽しみを貪る必要がないからである。それゆえに貪愛は断たれたのであり、涅槃の楽に趣く貪りを断ったのではない。

これは、須陀洹の人にある種の貪りは生じないが、全部の貪りが生じないわけではないと説いているのであり、全部の貪りが生じないのは三果の聖者である。初果は身見という三つの束縛の結びを断除し、異性に対する纏綿した貪りは生じない。それは三昧の楽受があるがゆえである。いわゆる三昧の楽受とは、初果が証果した時の禅定の覚受と覚明の現象である。それゆえに初果を証するには必ず禅定がなければならず、未到地定を得て、その後初果を証する時に初めて三昧の境界があり、それは禅定と我見を断つ智慧を含むのである。

——生如法師の開示
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二果と三果の特徴

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