もし廬山を世俗の法に喩えるならば、私たちが世俗の虚偽・虚妄・不実性を見抜けず、世俗の法が苦・空・無常・無我である性質を認識できないのは、自らの心が世俗の法に貼り付きすぎているからです。むしろ完全に世俗の法に溶け込み、隙間すらなくなるほどに心が世俗の法に覆い隠されてしまうのです。結果として歳月を重ね、生を繰り返す中で、いつも世俗の法の中で喜怒哀楽に翻弄され、世俗の法に操られ、世俗に縛られるばかりで、自らの身心は自由も解脱も得られません。解脱を望むならば、どうすればよいのでしょうか。
もし廬山を自らの妄心である七識に喩えるならば、いかにして妄心の生滅変化し実体なき性質を見極めるべきでしょうか。自らの心を客観的に捉え、自らの心の動きを認識しようとするならば、心を一旦取り出し、振り返って自らの心を観察する必要があります。一定の距離を置き、一定の高みに立って、自らの心の動きを客観的に観察するか、あるいは他人の心の動きとして観察すれば、より客観的かつ公平になるでしょう。
もし廬山を五蘊の身に喩えるならば、幾生にもわたり五蘊の身の中にありながら、五蘊が無我であることを知らず、五蘊が無常で生滅変化することを知らず、五蘊が苦・空であることを知りません。五蘊の真の姿を改めて徹底的に認識しようとするならば、仏の説かれた四聖諦の法に従って五蘊を観察すべきです。もし五蘊の身の真の姿を知ろうとするならば、大乗般若を修学し、五蘊の身の中にある如来蔵を参究すれば、五蘊の身の本来の面目が実は如来蔵そのものであることを悟るでしょう。五蘊の身は如来蔵が現じた幻のような仮の姿であり、真実は五蘊の身の中で幻術のように変化して現れているため、凡人には推し量れません。
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