衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年07月16日    火曜日     第1開示 合計1695開示

大乗顕識経(三八)

原文:識は身に在るも、闇の体の如し。視るも見ること得ず、執持すること能わず。母の子を懐くが如く、自ら知ること能わず。是れ男なるか女なるか。黒白黄色なるか。根具足せるか不具足なるか。手足耳目あるか。類と不類なるか。飲食熱きに刺されれば、其の子便ち動く。苦痛を覚知す。衆生の来去し、屈伸し視瞬し、語笑談説し、担運して重きを負い、諸の事業を作すに、識の相具に顕わる。而も能く識の在る所を知らず。身の中に止まるも、其の状を知らず。

釈:アーラヤ識が五蘊の身にある様子は、あたかも暗闇の如く、形も色もない。目で見ようとしても見えず、捉えようとしても捉えられず、触れようとしても触れることができず、我々は到底執持することができない。これは彼の無形無相でありながら、万法の中に顕現する特性を形容したものである。ちょうど母親が妊娠した時、自らが懐いている子が男か女か、肌の色が黒か白か黄色かも知らず、六根が具足しているか不具足かもわからないようなものである。過去の時代には検査設備がなく、妊娠中に胎児の性別を検査することも、色身の相貌を知ることもできず、手足や目・耳などの有無も全くわからなかった。

しかし母親が食事をする際、熱いものを食べると、子は熱の刺激を受けて母胎の中で動き回る。胎児は熱を恐れるため、子が動くと母親は非常に痛みを感じる。母親が冷たいものを食べようものなら、子も耐えられず同様に動き回り、母親は苦痛を感じる。この時、母親は子の活動を知るのである。

胎中の子をアーラヤ識に譬え、母親を衆生の五蘊に譬える。衆生の五蘊が行き来し、腰を屈め伸ばし、目を動かし瞬き、語り笑い談説し、水を担い薪を運び、身体に重きを負い、一切の事業を行う時、アーラヤ識の相貌はことごとく顕現する。しかし衆生はアーラヤ識が何処で作用しているかを知らず、アーラヤ識が身の中に居止しているにもかかわらず、その状態が如何なるものかを知らない。あたかも妊娠した母親がその子を知らないのと同じである。

アーラヤ識は無形無相であり、衆生はその様態を知らないが、五蘊が作用する時にはアーラヤ識が現前していることを知る。こうして一つの禅宗公案が生じる。アーラヤ識は容易に証得でき、明心は相当に速やかである。この経典はほぼアーラヤ識を極めて明白に表出している。再び公案を参究する際には、容易に参究し得る。参禅は実は難しくなく、ただ定力が不足しているため証悟がやや難しいのであり、解悟は相当に容易である。参禅の方向性が以前は掴めなかったが、今この大乗顕識経の内容を学べば、アーラヤ識が決して五蘊から離れず、真法が仮法から離れないことは明らかである。もちろん仮法も真法から離れず、仮法の作用の上に真法の顕現がある。この参禅の方向性は極めて明確である。ところが一部の学仏者が参禅すること三十年、死ぬ時になっても依然としてどの方向で参ずべきかわからず、如何にアーラヤ識を取証すべきかも理解せず、参禅が第八識を悟り如来蔵を悟ることだとも知らない。

「衆生来去し、屈伸視瞬し、語笑談説し、担運して重きを負い、諸の事業を作すに、識の相具に顕わる」——この数句を詳細に解説すれば、一般的な禅宗公案は理解できるようになる。しかし理解できたとしても、その中でアーラヤ識が実際に如何に作用しているかがわからなければ、それは単なる解悟に過ぎず、真に証得したことにはならない。なお仔細に参究し、アーラヤ識の具体的な作用状況を参究し得て初めて証悟となる。証悟の後は智慧が直ちに向上する。参禅によっておおよその状況を参じ得ても、具体的な作用がわからず、細部を知らなければ、せいぜい解悟が関の山である。アーラヤ識が衆生の身中にあることは知っていても、それが如何なる状態なのかを知らない。一般的に知見が具足していない段階では、アーラヤ識が各所で作用していることだけは知っていても、彼が結局何処で如何なる作用を起こしているかは全くわからず、この状態では証悟までにはなお距離があり、引き続き努力を要する。

——生如法師の開示
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廬山の真の姿を知らず、只此の中に身を置くにあり。ここにはどのような意味が込められているのでしょうか。

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如来蔵の鏡に映る像も色法です

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