衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年07月16日    火曜日     第2開示 合計1696開示

如来蔵の鏡に映る像も色法です

一切の法は色法と心法、および非色非心法に分けられる。色法は必ず四大種によって構成され、心法が見る部分である。識心が見る鏡の中の像もまた色法であり、必ず四大種によって構成されるが、その構成機構は鏡の外の色法とは異なる。心法は分別できる心であるが、鏡の中の像は分別できないため、心法ではない。

鏡の外の相は、共業の衆生の如来蔵が共同で顕現したものであり、鏡上の像は個別の衆生の如来蔵が外の相に依って顕現したものである。鏡の外の相は仮であり、鏡上の像はさらに仮である。様々なレベルの相は、その四大種で構成される微粒子に差異があり、真実の程度が異なる。私たち自身が見る自分自身の色身の一切は、あたかも鏡上の像のようである。有であり無であるか、非有非無であるか、非有非無ではないのか?

楞厳経において仏は説かれた:色身の微塵と器世間の微塵は二つではなく別物ではなく、同じ四大種によって構成されていると。例えば、身体が毎日血管や皮膚から排出する老廃物は、器世間の砂土と全く同じであり、排出する汗は大自然の水と全く同じであり、口鼻皮膚から呼出する気息は器世間の風と全く同じであり、身体から発散される火気は器世間の火と全く同じである。したがって色法を構成する四大種は同じであり、身体と器世間は二つではなく別物ではない。外界の四大が変化すれば、身体もそれに伴って変化する。

外道の無論は、目で色法を見ながら、無であると説く。無であるなら、なぜ言説があるのか?外道の有論は、明らかに一切の色法は無常空であるのに、真実不壊であると説く。仏の説かれる法は、有でもなく無でもなく、非有非無であり、かつ有でもあり無でもあり、非有非無ではない。その一つを取り上げて、その他を論じないのは外道見である。仏法は永遠に円通であり、左に説き右に説いても、すべて道理が通る。しかし外道論は常に自己完結できず、自己矛盾する。

——生如法師の開示
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どのようにして五蘊十八界が無我であることを正観するのでしょうか

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