一切の法は色法と心法、および非色非心法に分けられる。色法は必ず四大の種子から構成されており、心法が見る対象の部分である。識の心が見る鏡の中の像もまた色法であり、必ず四大の種子から構成されているが、その構成の仕組みは鏡の外にある色法とは異なっている。心法とは分別できる心であり、鏡の中の像は分別できないので、心法ではない。
鏡の外にある相は、共業の衆生の如来蔵が共同して変現したものであり、鏡の上の像は、単独の衆生の如来蔵が外の相に依って変現したものである。鏡の外の相はすでに仮であり、鏡の上の像はなおさら仮である。さまざまな階層の相は、その四大の種子から構成される微粒子に差異があり、それによって真実の程度が異なってくる。私たち自身が見る自分の色身の一切は、鏡の上の像のようなものである。それは有なのか無なのか、非有非無なのか、非非有非非無なのか。
楞厳経の中で仏は、色身の微塵と器世間の微塵は二なく別異ならず、同じく四大の種子から構成されていると説かれた。例えば、身体が毎日血管や皮膚から排出するゴミや廃棄物は、器世間の砂土とまったく同じであり、排出される汗は、大自然の水とまったく同じであり、口や鼻、皮膚から吐き出される息は、器世間の風とまったく同じであり、身体から発せられる火気は、器世間の火とまったく同じである。したがって、色法を構成する四大の種子は同一であり、身体と器世間は二なく別異ならないのである。外界の四大に変化が生じれば、身体もそれに伴って変化する。
外道の無論(無を論ずる説)は、眼で色法を見ながら、無であると言う。無であるなら、なぜ言説があるのか。外道の有論(有を論ずる説)は、一切の色法が無常空であるのに、真実不壊であると言う。仏の説かれる法は、有でもなく無でもなく、非有非無であり、有でもあり無でもあり、非非有非非無である。そのうちの一つを取り、他を論じないのが、すなわち外道見である。仏法は常に円通であり、左から言っても右から言っても、すべて通じる。しかし外道の論は、つねに自らの説を円満に立てることができず、自ら矛盾するのである。
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