五蘊が無我であることを観察する際、まず色蘊が自己ではないと観察する。もしこの「自己」を第八識に置き換えるならば、それは色蘊が第八識ではないと観察することを意味する。質問:この観察には何の目的があるのか?どのように観察するのか?観察する必要があるのか?これは正しい観察(正観)なのか?
受蘊が無我であることを観察する際、却って受蘊が第八識ではないと観察する。この観察には何の目的があるのか?どのように観察するのか?観察する必要があるのか?これは正観なのか?
想蘊が無我であることを観察する際、却って想蘊が第八識ではないと観察する。このような観察には何の役割があるのか?どのように観察するのか?観察する必要があるのか?これは正観なのか?
行蘊が無我であることを観察する際、却って行蘊が第八識ではないと観察する。この観察には何の目的があるのか?観察する必要があるのか?どのように観察するのか?これは正観なのか?
識蘊が無我であることを観察する際、却って行蘊が第八識ではないと観察する。この観察には何の目的があるのか?これは正観なのか?観察する必要があるのか?どのように観察するのか?
さらに続けて六根が無我であることを観察する際、却って眼根・耳根・舌根・鼻根・身根・意根が第八識ではないと観察する。これに観察する必要があるだろうか?眼・耳・鼻・舌・身・意が根本的に第八識ではないことを知らない者などいるだろうか?それなのに苦労して禅定を修め観行し、六根が第八識ではないという結論を導き出す。眼根が第八識ではないことを知らない者などいるだろうか?意根が第八識ではないことを知らない者などいるだろうか?六塵を観察する場合も同様で、わざわざ六塵が第八識ではないと観察することに何の目的があるのか?色・声・香・味・触・法が第八識ではないことを知らない者などいるだろうか?観察する必要があるのか?誰もが知っていることで、これは蛇足もしくは余計な行為ではないのか?五蘊の無常・苦・空・無我と何か関係があるのか?
まっすぐな正しい道を行かず、却って高尚で神秘的と見えるものに偏り、人目を引こうとする。世の人々は無知であり、異様さに全く気付かずに熱心に追随している。
小乗の観行における五蘊の観察とは、まさに五蘊十八界の無常性、変異性、空性、苦性を観行し、それゆえにこれらが我々が無始以来執着してきた「私」ではないと確認することである。全く執着すべき「私」と呼べるものは何一つ存在しない。そうすることで我見を断つのである。このような観行こそが正観である。もしこれ以外の観察を行うならば、それは邪観となる。
0
+1