原文:識の遷運は、日の光が流れるが如く、摩尼が照らすが如く、木が火を生むが如く、また種子の如し。これを地に種うれば、体は地中に化し、芽・苗・茎・葉は外に備わって顕れる。生ずるは白ならず、赤などの雑色、種々の花、種々の力味、成熟して為すところ、種々の差別あり。同一の大地、等しく四大を資るとも、各々その種に随い、生ずるものは便ち異なる。
釈:阿頼耶識の遷運と入出は、太陽の光が万物を照らすように、太陽の光は形も相もないが、万物に光沢と温度を与える。太陽の光が滅すれば、万物は直ちに光沢と温もりを失う。阿頼耶識もまた同様に、衆生に生命活動を与え、また失わせる。阿頼耶識の遷運は、摩尼宝珠が物を照らすように、摩尼宝光は形も相もないが、物に宝光の色を帯びさせ、阿頼耶識が色身に遷れば、色身を顕現させることができる。阿頼耶識の遷運は木が火を生むように、木が燃えれば火が出る。木の中に火はないが、因縁によって火が現れる。阿頼耶識もまたこれと同様に、業の因縁によって、もう一つの色身に遷運し、色身が出生するのである。
阿頼耶識の遷運は、また種子が地に種えられるのに譬えられる。種子は全て大地の中に化し、植物の芽・苗・茎・葉が生じ、完全に土地の外に顕れ、様々な色彩の雑色の花を生じる。そして果実を結び、種子が異なれば果実も異なり、その味も様々で、全て種子が成熟した後に生長して出てきたものである。同じ大地が、同じ四大の物質的養分を提供しても、その種子の違いに随って、生じる果実には種々の差異がある。
種子が土壌に入り地中に化してしまえば、見つからなくなる。種子はどこへ行ったのか?芽・苗・茎・葉はまたどこから出てきたのか?芽・苗・茎・葉が全て生え出た後は、種子は更に影も形もなく消えてしまう。種子はどこへ行ったのか?これらの現象の出生と消失には、全て一定の因縁性がある。阿頼耶識が鶏の卵や鵞鳥の卵に入るのも、同じように因と縁があって、鶏の卵や鵞鳥の卵が形成され、また鶏や鵞鳥が孵化するのである。阿頼耶識が一つの衆生の身体の中に遷運するのは、鶏の卵であれ、鵞鳥の卵であれ、胎生の生命であれ、化生の生命であれ、太陽が光明を照らし降ろすように、摩尼宝珠がその光輝をもって万物を照らすように、また木が火を生むことができるように、である。
また種子が地中に種えられ、因縁が具足した後、種子は消失し、根・芽・苗・茎・葉が全て生長して出てくる。そしてまた種々の雑色の花が出生し、花が生え出た後には果実があり、果実の味が発散される。種子が異なるため、結ぶ果実にも差別がある。もし種子が結局どこへ行ったのかを探そうとするならば、それは行く先のないものである。
本来は同じ大地であり、大地上には同じく地水火風の四大物質が備わっている。四大の種子の滋潤に依って、根・芽・苗・茎・葉・花・果実などが生え出るのであるが、種子が異なれば、生じる果実も異なる。全てはそれぞれの種子に随って、各々の類の果実を生成するのである。
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