如来蔵(tathāgatagarbha)が私たちの色身を生み出した後、現在の色身はどのように存在しているのか?まだ如来蔵が生み出しているのか、如来蔵は今も連続的に色身を生み出し続けているのか?この問いに答えられなければ、どのようにして色身が第八識に非ず、第八識と異ならず、第八識と相在せぬことを知り得ようか?
如来蔵が最初に色身を生み出すとき、四大種子を輸送し、同時に意根の識種子を輸送し、それから意識の識種子を輸送し、同時に絶えず四大種子を輸送し続ける。色身が生まれた後も、如来蔵は依然として絶えず四大種子を輸送し続けており、これは如来蔵が今も絶えず色身を生み出し続けていることに相当する。ひとたび如来蔵が四大種子を輸送しなくなれば、色身は生まれなくなり、色身は滅して存在しなくなる。
如来蔵は一切法を生み出す。法が存在する限り、如来蔵は絶えず法を生み出し続けている。法が現れた後の後続の生を執持と維持と呼ぶが、実際にはやはり生であり、断絶はない。四大種子は生まれると滅し、また生まれ、また滅する。このように絶えず生滅が循環し往復することによって、色身は存在し続け、かつ絶えず変化していく。如来蔵が色身において果たす働きとは、絶えず四大種子と識種子を輸送し、回収することである。如来蔵が一切法において果たす働きとは、種子を輸送し、絶えず法を生み出し続けることであり、すなわち法の存在と変異を維持し、法を生・住・異・滅させることである。
一つの色身全体は、すべて如来蔵が単独で七大種子を出力して構成されたものである。ならば色身は、如来蔵が単独で投資した持株有限会社のようなものであり、独資企業とも呼べる。ただし収穫はなく、利益もなく、損耗もない。興隆も衰退も成敗も、如来蔵にとってはどうでもよいことである。なぜなら如来蔵は色身を我と我所とは見なさないからである。
如来蔵が全額投資して色身をコントロールしているという観点から言えば、色身は第八識如来蔵に非ず、とでも言えるのか?非なり!色身は第八識如来蔵と異なる(第八識の所有するものではない)、とでも言えるのか?非なり!色身は第八識と相在せぬ、とでも言えるのか?非なり!
色身のすべての種子は第八識から来ており、第八識の中の一部の種子が色身を構成している。色身はすなわち第八識であり、第八識に属するものである。色身の全体はことごとく真如であり、いわゆる一真法界とはこのことである!世間の一切の有為法のうち、どれが第八識でないと言えようか?全体がすなわち真如、一真法界である!
色身の全体がすべて第八識の種子によって構成され、色身が第八識によって調節・制御されているのであるから、色身と第八識は相在せず、また相在せぬのでもない!社長がどうして自分の会社を離れられようか?
しかし色身は本当に第八識の独資であり、共同で株を支配する者はいないのか?第二の社長や第三の社長はいないのか?非なり!まだ偽の社長が表面上管理・支配しており、神様は色身を我であり我のものであると考え、我がものさしで決めるのだと思っている。
第八識は何に基づいて七大種子を出力し、投資して株を支配するのか?もちろん業種に基づくのである。業種はどこから来たのか?意根が主導して六識が業行を造作することによって得られたものである。意根が主導して六識が善業を造作すれば、良い色身があり、利益を生み出す優秀な会社がある。意根が主導して六識が悪業を造作すれば、悪道の色身、災難の多い色身があり、損を出す衰退した会社がある。色身という会社の興隆・衰退・成否は、意根がリスクを負い、責任を担い、利益は意根に帰し、損失も意根に帰する。
如来蔵は放任する大旦那であり、投資した後は、その他は一切構わない。会社にお金が必要になれば、また投資して管理するが、それは在庫の中にあればの話である。とはいえ、色身という会社が得た利益は倉庫に蓄えられるのか?倉庫に蓄えられる。会社の運営が失敗すれば、債務は意根が責任を負い、倉庫の預金から借金を返済する。倉庫が空になれば、色身は放浪して物乞いをして暮らし、第二の社長である意根と第三の社長である六識は奴隷に落ちる。
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