衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年07月19日    金曜日     第4開示 合計1703開示

如何に用功すれば証悟できるか

八つの識はすべて身を執持する働きがあり、ただ各識の働きが異なるだけで、一つの識あるいはいくつかの識が欠けると、色身の状態も変わってしまいます。たとえば五識の身を執持する働きがなければ、人は座っていられず立っていられなくなり、意識も身を執持しなければ眠りに落ちて、色身はぐったりと傾いてしまいます。

多くの人が自分は悟ったと言いますが、実はその悟ったとされる法の上でも、なお八つの識の和合した働きであり、それぞれの機能・働きを見分けられないのに、どうして第八識を悟ったと言えるのでしょうか。すべての識の機能・働きを第八識のものと見なすのは、まさに「張冠李戴(他人の帽子を自分の頭に被る)」というものです。このような悟りは、ごく簡単で、如来蔵があると知っている人なら誰でも悟ることができ、決して難しくはありません。たとえ八つの識のそれぞれの働きを見分けられたとしても、定力が不足していて、論理推論の方法によって第八識の働きを推論したなら、やはり証悟ではなく、ただの解にすぎず、功徳受用はなく、我見を断することもできず、解脱を得ることもできません。

多くの事柄は、軽々に人にあることを知らせても、その人には触れるものがなく、何の働きも生じず、その人を変えることはできません。自分で一歩一歩探究させ、事実の真相を探し求めさせてこそ、その人は初めて本当にそのことを信じ、自分自身の心が動かされるのです。人はみな自分自身を信じ、外から押し付けられた思想や観念を信じないものです。

意根も同様で、意識の思想や観念を軽々には信じず、自分の目で見たことだけを信じます。それゆえ、意根に意識の提供する情報に基づいて、自ら参究し自ら思量させざるを得ないのです。自分で思量した結果こそ、本当に信じることができ、それによって疑を断つのです。

参究の過程では、意識が心を用いれば用いるほど意根は心を用いることが少なくなり、意識が心を用いなければ用いないほど意根は心を用いることが多くなります。意根に多く心を用いさせてこそ証が得られますが、これにはかなり深い禅定が必要です。さもなければ意根は心を用いることができず、意識だけが心を用いることになってしまいます。意識の働きが良いものといえば、せいぜい推理と論理的思考ですが、それでも意根本身の思量・考究に代わることはできません。意根を使えるようになってこそ、真の智慧、決定的な働きをする智慧が生じるのです。自分の禅定がまだ十分でないときは、根本の法について思惟せず、参禅しないことです。解するだけで証しないことを避けるためです。

——生如法師の開示
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色身は第八識に非ずして第八識と異ならざるものか

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推理によって得られた結果は現量として扱うことはできない

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