例えば世俗法において、公安職員が事件を処理する際は、必ず関連現場に赴き、容疑者の犯罪証拠を探す方法で事件を処理します。机の前に座って意識で分析や推理を行う方法で事件を処理することはありません。たとえ推理が正しくても、決して証拠として扱うことはできません。調査や証拠収集の過程で推理活動は存在しますが、推理は迅速に証拠を見つけるためのものであり、証拠が見つからなければ、その推理は無効となり、一からやり直します。確実で正確な証拠がなければ、容疑者の疑いがどれほど大きくても、有罪とすることはできず、無罪放免するしかありません。裁判所が犯人を裁くのは、すべて事実と有力な証拠に基づいており、推理を用いて犯人を有罪とすることはありません。
仏法の実証はすべて厳密に客観的法則を体現しており、世俗法よりも厳密で、わずかな誤りも許されません。確固たる事実の根拠がなければ、意根は証得することができません。これはどうしようもないことです。
もし甲が捜査担当者に「乙の日常の行動や習慣から判断して、私の金時計はきっと乙が盗んだに違いない」と言ったとしても、捜査担当者や裁判所は、甲の推論に基づいて乙を有罪とすることはできません。たとえ甲の推論が正しくても、それは事実ではなく、有罪とする根拠にはなりません。たとえ誰もが乙が盗んだに違いないと知っていても、乙を罪に問うことはできないのです。
仏法上の証悟も同様です。たとえ論理的思考力がどれほど強く、推理がどれほど正しくても、それは事実ではなく、証悟には属しません。推理の過程では、自分自身を否定して我見を断つことはできません。なぜなら、意根が事実を見ておらず、身心の触動がなければ、五陰の自己を否定できず、我見を断つことができないからです。我見を断たなければ、証悟することはできません。理解は許されますが、理解には何の功徳もなく、受用もなく、法眼浄を得ることもできず、解脱の心を生じることはありません。
意識の推理は誰のために行うのか? それは意根のために推理するのであり、意根に理解させるためです。意識の分析は誰のために行うのか? それは意根のために分析するのであり、意根に理解させるためです。なぜなら、意根は推理も分析もできないため、往々にして事に遭遇すると決断がつかなくなるからです。意識が分析や推理を行った後、ある程度物事が理解でき、判断を下し、決断することができるようになるのです。
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