例えば、幼児が歩くことを学ぶ場合、正常に歩けるようになるまでは、すべて歩行学習の段階にある。歩く練習中はよろめいたり、手で物をつかんだり、体を寄りかからせたりし、時には転んで手足を傷つけることも避けられない。足腰が熟達し、自由に東西南北へ歩けるようになって初めて学習は終了し、独行者と呼ばれる。しかし時折つまずくことは避けられず、大人でもうっかり転ぶことがある。また、幼児が言葉を学ぶ例えでは、「あーあーうーうー」と一語二語から始まり、次第に文を形成し、最終的に自由に自らの意思を表現できるようになって障壁がなくなり、言語学習は終わる。
菩薩が戒を学ぶのもまた同じである。煩悩や習気が心にまとわりつき、自覚することはない。新たに戒律を受けたばかりではその意味が分からず、どう守ればよいかもわからない。毎月戒を誦して理を明らかにしようとするが、時には戒を破り、気づけば悔い、悔い改めてはまた過ちを犯すという苦労の連続である。軽戒は守り難く、重戒すら犯してしまう。煩悩が断たれ、三果・四果に至って初めて自由闊達、縁に従って自在となり、心に負担がなくても節度を超えることはない。重戒は犯さず、軽戒は守れるが、それでも時折不注意で軽戒に漏れが生じる。重戒を犯さないこの状態を「持戒」と呼び、初地から八地までに相当する。八地以降は習気が断尽され、自然のままに任せて行動し、あらゆる戒律に対して「持つことも犯すこともない」境地となる。
もし出家菩薩の十重戒、あるいは在家菩薩の六重戒を犯す者がいるならば、それは持戒とは呼べず、ただ「学戒」である。軽戒が守り難く頻繁に破る場合も、持戒とは言えず学戒に過ぎない。戒を学ぶことは容易ではなく、幼児が言葉や歩行を習得するよりも難しいが、これは菩薩が成長する上で必ず通る段階である。この段階を過ぎて初めて菩薩大人・如来の子と呼ばれ、心は解脱を得て自在無碍となり、三界を縦横に駆け巡り、理と事が円融するのである。
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