衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年07月21日    日曜日     第2 回の開示 合計1707回の開示

学戒とは何か

例えば、幼児が歩行を学ぶように、正常に歩けるようになるまでは、全て歩行学習の段階にある。歩行を学ぶ際にはよくよろめき、手に物を支え、体を寄り掛からせ、時には転倒して手足を傷つけることも免れない。足腰が熟達し、自由自在に四方へ歩けるようになって初めて学習は終了し、独行者と呼ばれる。しかし時折つまずくことは免れず、成人しても不注意で転ぶ時がある。また例えば幼児が言葉を学ぶように、喃語から一字二字を経て文を成し、最終的には自らの意思を自由に表現できるようになり、障礙なく言葉を習得する。

菩薩が戒を学ぶ様子もまた同様である。煩悩習気が心に纏わり付き、自覚することはない。新たに戒律を受けてもその意義を理解せず、如何に守るかを知らない。毎月戒を誦して道理を明らかにし、時には戒を破り、発見すれば即ち悔い、過ちを改めるが、改めてまた犯す。苦心惨憺し、軽戒も守り難く、重戒も犯す。煩悩が断じ尽くされ、三果四果に至り、自由闊達に、縁に随って自在となり、心に負担なく、しかも規矩を越えぬ。重戒は犯さず、軽戒は守れるが、なお時折不注意があり、軽戒に漏れがあっても重戒は犯さない。これを戒持と称し、初地から八地に対応する。八地以降は習気が断尽し、自然のままに運ばれ、諸戒律に対し持つことも犯すこともない。

もし出家菩薩の十重戒、及び在家菩薩の六重戒に違反する者は、戒持とは称さず、ただ戒学と名付ける。軽戒が守り難く頻繁に違反する者は、戒持とは称さず、ただ戒学と名付ける。戒学は容易ならず、幼児の言語習得や歩行訓練より困難であるが、これは菩薩が成長する必然の段階である。この段階を過ぎて初めて菩薩大人、如来の子と称され、心は解脱を得て自在無礙となり、三界を馳せ巡り、事理が円融するのである。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

大乗顕識経(五十二)

次の記事 次の記事

雑阿含経 巻一(四)

ページのトップへ戻る