原文:かくのごとく我聞けり。一時、仏は舎衛国の祇樹給孤独園に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げたまわく、色において知らず明らかでなく、断ぜず離欲せず、心解脱せざる者は、すなわち生老病死の怖れを越えることができない。かくのごとく受・想・行・識において、知らず明らかでなく、断ぜず離欲貪せず、心解脱せざる者は、すなわち生老病死の怖れを越えることができない。比丘よ、色においてもし知りもし明らかにし、もし断じもし離欲するならば、すなわち生老病死の怖れを越えることができる。諸比丘よ、もし知りもし明らかにし、もし離欲貪し、心解脱する者は、すなわち生老病死の怖れを越えることができる。かくのごとく受・想・行・識において、もし知りもし明らかにし、もし断じもし離欲貪し、心解脱する者は、すなわち生老病死の怖れを越えることができる。その時、諸比丘は仏の説きたまうところを聞き、歓喜して奉行せり。
釈:世尊は比丘たちに説かれた、色蘊に対して了解せず、明らかでなく、色蘊を我とする知見を断除できず、色蘊に対する貪欲を離れられず、なお色蘊に貪着するならば、生老病死の恐怖を越えることができないと。
反対に、もし如実に色蘊を了解し、色蘊の真実相を明らかに認識し、色蘊に対する身見を断除し、色蘊に対して離欲することができれば、生老病死の恐怖を越えることができ、今後再び生老病死の苦を恐れることはなくなり、生老病死の苦を滅尽し、涅槃の楽を得ることができると。
そのうち、「知」とは、色蘊に対する粗略な了知・了解であり、その無常・空・苦・無我、生滅変異、久住しないことを了知することを指す。「明」とは、明らかなことであり、比較的微細に色蘊の無常性・空性・苦性、生滅変異性、無我性を了解することを指す。「断」とは、色蘊を我とする知見を断除することである。「離欲」とは、初禅以後の三果において色蘊に対する貪欲・愛欲を断除し、欲貪を離れることである。離欲した後、心は色蘊から解脱し、色蘊に繋縛されず、色蘊を滅尽して三界を出離し解脱を得る能力を持つようになる。
世尊は引き続き比丘たちに説かれた、もし受蘊・想蘊・行蘊・識蘊に対してよく認識せず、了解せず、明らかでなくその無常・苦・空・無我という真実相を証得しなければ、受蘊・想蘊・行蘊・識蘊に対する貪欲を離れることができず、貪欲が断たれなければ、生老病死の恐怖を越えることができず、今後も引き続き生老病死の苦があるだろうと。なぜなら受・想・行・識の貪欲を断たないがゆえに、貪によって苦が生じるからであると。
反対に、もし如実に受蘊・想蘊・行蘊・識蘊を了知し、受・想・行・識蘊の真実相を明らかに認識し、受・想・行・識蘊の無常・空・苦・無我を証得すれば、受・想・行・識蘊を我とする我見を断除し、続いて受・想・行・識蘊に対する欲貪を離れることができ、こうして生老病死の恐怖を越え、今後再び生老病死の苦はなくなるだろうと。貪欲を断除するゆえに、受・想・行・識蘊の繋縛から脱し、三界を出離し、生死を解脱し、涅槃の楽を得ることができると。
この法を修習するには、まず粗略に色蘊を知り、さらに微細に色蘊を了解しなければならない。これには禅定と観行が必要であり、禅定の中で観行し、「一段高い所から観る(高着一只眼)」ことによって初めて色蘊をはっきり見極め、色蘊を認め明らかにし、色蘊の真実相である無常・空・苦・無我を証得できる。「一段高い所から観る」には意根の思量を用い、意識もある高みに立って色身から離れて観察し、心が色身と粘着せず、客観的かつ公正に色身を看待し観察することで、色身の本質的問題を認識でき、従来の認知とは大きく異なるようになる。こうして我見を断って証果することは相対的に容易になる。
「一段高い所から観る(高着一只眼)」とは、心を引き出し単独で取り出し、五受蘊と混合しないことであり、「反観」とも呼ばれる。反観は智慧を生じやすく、客観的事実を認識しやすく、新たな発見を得やすい。「一段高い所から観る(高着一只眼)」こと、「専注して観る(猛着一只眼)」ことがすなわち禅定であり、従来の認知を隔離し、智慧を生み出すことができる。朝な夕なに、日々修練を重ねることで、日久しく功が深まり、従来の誤った認知を覆し、解脱の智慧を得るのである。
問題を認識することは難しくないが、観念を変えることが最も難しい。無始劫以来の観念、すなわち色・受・想・行・識を我・我所と認めることは、根深く固まり、習慣化しているため、たとえ五蘊の無常性を理解しても意根の旧来の観念を変えることはできない。必ず禅定の中で長期的に観行・反観・思量し、この事を究明しようと努め、元の思想観念を覆そうと力求めなければならない。突破口を見つけ、五受蘊全体に対する我見を断除すれば、大いに希望がある。砦は少しずつ攻略すべきであり、初めから過大を貪求して力及ばざることを避けるべきである。
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