禅定は外道に通じるものであり、修めることは束縛になると言う人もいます。しかし外道が禅定の楽しみを享受するのに対し、学仏者は智慧を開き、生死の苦しみから解脱するために用いるのであれば、何ら問題はありません。例えるなら鋭利な刀を、外道は殺生に使い、学仏者は大衆のためや自らの生活のために野菜を切ったり果物を剥いたりします。外道が使うものを学仏者が必ず避けなければならないとするのは愚かな考えです。同じ理屈で、外道が悪用するものを学仏者が善用するのは、まさに方便ではないでしょうか。一切の法を衆生が悪用する中で、仏はそれを善用されるのです。学仏することこそまさに善きことではございませんか。
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