譬えば人の面影が鏡に映るが如し。清浄でなく明るくなければ、面像は現れず。鏡が明るく面と向き合う時、影像は初めて現る。鏡中の像は受けることも念うことも無きに、人の身に随って屈伸俯仰し、口を開いて談笑し、行き来し進み止まり、種々の運動を行う。
賢護よ、影像は誰の力によって現れるか。
賢護が仏に申し上げました。これは人の力でございます。面がある故に面影が生じ、影像の色は面の色の如く、根具不具も悉く面の如くでございます。
釈して曰く、恰も人の顔が鏡に映る様に、もし鏡が清浄でなければ、あるいは鏡が明るくなければ、顔は鏡に現れません。鏡が清浄で明るく、顔が鏡に向かう時、面像は現れます。鏡の中の像は感受も念想も無いのに、鏡の外の人の身体に随って様々な動作、例えば腰を屈め伸ばし、頭を俯せ仰ぎ、口を開いて談笑し、行き来し進み止まる等、種々の運動を行います。鏡の外の人が口を開いて話そうが、挙止運動しようが、鏡の中は皆同じ動作と形態を現します。
仏が賢護に問われた。鏡の中の影像が現れるのは誰の力か。賢護が仏に申し上げた。人の力でございます。人の面がある故に、鏡に面影が生じるのでございます。鏡の中の影の色相は鏡の外の面の色相と全く同じで、鏡の中の人像の六根具足不具足も、鏡の外の人の六根具足不具足と同じでございます。
0
+1