原文:かくのごとく我聞けり。一時、仏は毘舎離の耆婆拘摩羅薬師庵羅園に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げたまわく、六つの触入処あり。何をか六と為す。眼触入処。耳鼻舌身意触入処なり。沙門婆羅門この六触入処において、集・滅・味・患・離を如実に知らざれば、当に知るべし、この沙門婆羅門は我が法律より遠く去れること、虚空と大地の如しと。
釈:世尊は諸比丘に告げられた。六根の触入処とは、眼根が色塵に触れる処、耳鼻舌身意が声香味触法に触れる処である。沙門婆羅門がこの六触入処において、六触入処の集起を如実に知見せず、六触入処の滅去を如実に知見せず、六触入処への味着貪着を如実に知見せず、六触入処の過患を如実に知見せず、六触入処の貪欲を離れるべきことを如実に知見しないならば、この沙門婆羅門は四聖諦の法と律則から遠く離れていることを知るべきである。それはあたかも虚空と大地が隔たるが如き遠さである。
原文:時に異なる比丘座より起ち、衣服を整え、仏に礼拝し、合掌して仏に白しき、我は六触入処の集・滅・味・患・離を具足して如実に知りぬ。仏比丘に告げたまわく、我今汝に問わん。汝問いに随って答えよ。比丘よ、汝は眼触入処を見るに、我なりや、異我なりや、相在するやと。答えていわく、否なり、世尊。
仏比丘に告げたまわく、善哉善哉。この眼触入処において、我に非ず、異我に非ず、相在せずと如実に知見する者は、諸漏を起こさず、心染着せず、心解脱を得ん。これを初触入処と名づく。已に断じ已に知り、その根本を断ずること、多羅樹の頭を截つが如し。未来の法において永く復た起きることなし。所謂眼識及び色これなり。
釈:時に他処より来たる比丘が座より起ち、衣服を整え、世尊に礼拝した後、合掌して申し上げた。私は六触入処の集起・滅去・味着・過患・離欲を完全に如実に知りました。仏はこの比丘に告げられた。今私が問うことに答えよ。比丘よ、汝は眼触入処を見るに、我あるいは我の所有物であり、また互いに依存していると見るか。比丘は答えた。世尊、私は眼触入処を我・我の所有物・相互依存とは見ません。
仏は比丘に言われた。善きかな。この眼触入処が我でなく異我でなく相互依存でもないと如実に知見する者は、貪瞋痴の煩悩である諸漏を起こさず、心が眼触入処に染着することなく、心が解脱する。これが最初の眼触入処における我見を断じたことである。多羅樹の頭を断ち切る如く根本を断じた故、未来世において眼触入処を我と見る知見は再び生じない。眼識を貪愛し色塵に染着する心行は永久に現れない。眼触が我でなく異我でないなら、眼触より生ずる眼識と色塵も同様に我でなく異我でない。眼触を貪愛しなければ、眼触によって分別を起こさず、眼識は生じず、色塵は眼識に現れず、心は色を見ない。
原文:汝は耳鼻舌身意触入処を見るに、我なりや、異我なりや、相在するやと。答えていわく、否なり、世尊。仏比丘に告げたまわく、善哉善哉。耳鼻舌身意触入処において、我に非ず、異我に非ず、相在せずと如是の如実知見をなす者は、諸漏を起こさず、心染着せず、心解脱を得ん。これを比丘六触入処と名づく。已に断じ已に知り、その根本を断ずること、多羅樹の頭を截つが如し。未来世において復た生ぜざらん。所謂意識及び法これなり。仏この経を説き已り、諸比丘仏の説きたまう所を聞き、歓喜して奉行せり。
釈:世尊はさらに比丘に問われた。汝は耳触入処・鼻触入処・舌触入処・身触入処・意触入処を我あるいは我の所有物と見、それらが相互に依存していると見るか。比丘は答えた。世尊、私はそのように見ません。
仏は比丘に言われた。善きかな。耳鼻舌身意触入処が我でなく異我でなく相互依存でもないと如実に知見する者は、貪瞋痴の諸漏を起こさず、心がそれらに染着することなく解脱する。比丘たちはこれらの触入処における我見を断じ、多羅樹の頭を断つ如く根本を断じた。未来世において耳識と声塵、鼻識と香塵、舌識と味塵、身識と触塵、意識と法塵が再び生じず、それらに貪着することはない。
これは誰が六識と六塵を貪着しないのか。もちろん意根が貪着しない。意根が六触入処の我見を断じたため、六根によって生じる分別を愛着せず、六識は生じず、六塵は六識心に現れない。
観行によって我見を断じた者は六根の処に如実知見を生じ、真実の智慧を起こす。六根の事実真相が我でなく異我でないと観じ、煩悩を断尽し、心が解脱する。もはや我見なく邪見生ぜず、我執を断じて無余涅槃に入る。意根の元来の邪見
六根を我と見做していたが、今は六根を我と見做さず、正見を具足し、如実知見を得て、六根を我と見做さない故に心は解脱し、煩悩を断尽する。
第八識を当て嵌めて解釈すれば道理に合わない。元来の邪見が六根を第八識と見做し、観行によって正知見を得て六根を第八識と見做さなくなるという理屈は成立しない。もしそうなら、元来の邪見は邪見と言えず、観行後の正見も正見と言えない。そのような理屈なら、一切衆生は我見を断ずる必要がなく、本来無我である第八識を我と見做し、色受想行識を我と見做さないなら、仏陀が再び娑婆世界に来て阿含経の四聖諦を説き、衆生に第八識を悟らせる必要もない。
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