意根にも自証分がある。観察する際には、まず意識が観察し、意根は意識の観察に基づいて自らの観察を行い、さらに思量を加える。それによって自らの知見を持ち、自らの結論を導き出す。全ては意根の結論を中心とする。意根は第八識に依って、第八識が幻化した一切の法を見る。そしてこの一切の法に対して自らの知見と見解を生じさせる。意根が理解できない法については、六識を通じて理解し、六識が理解した内容に基づいて再び思考判断を行い、自らの見解と知見を導き出す。
意根にとって「我」と「我所」の概念は明確ではなく、具体的な概念すらほとんど持たない。それ(意根)は機能作用のみを重視し、五蘊・十八界の機能作用を執取する。これには自らの機能作用も含まれるが、意根自身の概念は存在しない。この点は意識との差異が極めて大きい。意根が五蘊の我を認取しない時、それは意根自身の機能作用をも認取しないことを含む。しかし初果の段階では、無我の認知は二果の時ほど明確深遠ではなく、二果は三果ほど明確深遠ではなく、三果は四果ほど明確深遠ではない。したがって初果で法眼浄を得ると、執取性は低下・軽減されるが、二果・三果の時の執取性の微弱さには及ばない。四果に至っては執取性が全くなくなり、五蘊・十八界に取着せず、これには意根自身の機能作用への取着も含まれない。
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