衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年07月24日    水曜日     第1開示 合計1716開示

意識の推論と推測は解脱とは無関係です

仏道を学び修行して真に証得することは、そう容易なことではありません。解釈は自由にできます。重要な問題について議論し、正しい結論を導き出すことはできますが、そのような議論は推理であり、推理の結果は解であって証ではありません。証得できず、個人の修行には有害無益です。現代の世の中で仏教を学ぶ人々の多くは、意識的な思考分析や推理推測を用いており、真に修行し真に参究し真に究明する、骨身を惜しまず努力する人はごくわずかです。たとえ八地の菩薩の境地を推測できたとしても、仏の境地を推測できたとしても、何の役にも立たず、生死からの解脱とはまったく無関係です。説法が巧みで華麗であっても、何の役にも立たず、生死からの解脱とはまったく無関係です。一生をかけて一万冊の書物を著しても、生死からの解脱とはまったく無関係です。

修行とはあらゆる相を打ち破ることです。これらの相に捉われて転じても無意味です。何かを得ようとする心、何かを求めようとする心を持って仏教を学べば、学び取るのも有為の法であり、有為の法はすべて生死の業です。仏教を学ぶことが無我のためでなく、煩悩からの解脱のためでなく、無明を消し去るためでなければ、これは明らかに世俗的な自我および私の…のためです。このようなやり方では、解脱の智慧を得ることは根本的にできず、生死を離れることもできません。これは別の種類の迷いと倒錯です。法を学ぶ際に結果や答えだけを求め、中間の修行過程を省こうとするのはすべて、求めようとする心、得ようとする心、すなわち生死の心であり、これも生死の業です。

現代人が仏教を学び、たとえ何度も悟ったとしても、我見を断つことができないのはなぜでしょうか。着実に禅定を修め観行せず、真に努力して参究し証得を求めなければ、真理を証得することは不可能であり、我見を断つこともできません。結果はどんな形でも手に入れることができますが、実際の修学過程はどんな手段を用いても得られるものではありません。修行という問題において、賢い人は苦労して努力しようとせず、真に努力する人は愚か者のようにひたすら求め、収穫を問わずにただ耕します。しかし、賢ければ賢いほどかえって愚かになるのです。修行とは愚か者がするものであり、賢い人のすることではありません。

——生如法師の開示
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小乗における我見を断つ観行の重心

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意根と意識の関係は、目と眼鏡の関係のようなものです。

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