なぜある人は、五蘊が無我であると思考を深めるうちに、心が乱れ始め、観行を続けられなくなるのでしょうか。これは意根が五蘊の無我をある程度感じ取り、自身が実体のないものだと気づき始めたためです。意根は本当に無我であること、自分が消失してしまうことを恐れているのです。これはまさに意根が無始劫以来持つ「我」への執着の習性によるものです。これまで「無我」という概念に触れたことがなく、今まさに意識の思考を通じて少し理解し始めたものの、まだ明確には把握できていません。意識がさらに思考を深めれば、自分は存在しなくなり、捉えどころがなくなると恐れ、その結果心が乱れて意識による更なる思考や観行を許さなくなるのです。
この現象から、我見を断つとはすなわち意根の我見を断つことだとわかります。深く細やかな思考と観行の過程において、意根は常に参与しており、意識が思考・観行する内容を意根はすべて感知し、自ら改めてそれらの内容を思量しています。意根がある程度まで修行を積み重ねれば、無我の理、第八識の理を完全に理解することができ、その後証得に至ることが可能です。意根は必ず仏法に対する勝解の力を持っていなければなりません。そうでなければ意識は意根を感化できず、仏法を学ぶことも無意味となってしまいます。意根が開悟した後は、次第に大智慧を獲得し、識が智へと転じ、平等性智を得ます。智慧が円満に至れば、すなわち仏となるのです。
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