衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年07月27日    土曜日     第1開示 合計1724開示

邪定とは何でしょうか?正定とは何でしょうか?邪定を正定に転換するにはどのようにすればよいでしょうか?

邪定は解脱の道にない道であり、解脱の智慧を生み出せない定であり、解脱へ向かわない定であり、外道と共通する定である。このような定の中では、識心が沈滞あるいは昏沈し、心を用いることがなく、思惟を起こさず、教理を思わない。

正定の中で最も正しい定は、定中において心が顛倒せず、世間の一切の法を思わず、善も思わず悪も思わず、一切の法に執着しないが、無上の智慧をもって衆生に随順し一切の法を生み出し、一切の法に拘束されず、一切の法から解脱する。次に正しい定は、定中において様々な正理を深く細かく思惟し、世間の一切の相に執着せず、善悪に執着せず、様々な解脱の大いなる智慧を生み出し、世界を変化させ、自他一切の善根・福德・因縁を成熟させ、心が正道に向かい、心が正道にある。

禅定がある程度修まると、心が清浄になり、心力が高度に集中し、思考がある深さに達した時、定中で思惟を起こし、現在解決すべき仏法の問題を思考し、現在理解すべき問題を思考する必要がある。そして出定後も、心を用いて仏法を思惟し、朝に夕に、心心念念、すべて仏法を中心に、現在解決すべき仏法の問題を中心にする。そうすれば仏法を明らかにでき、因縁条件が具足した時、相応の法を証得し、智慧を開く可能性がある。

比較的深い正定の中では、意識の思惟は少なく軽微で、情思や意解はないが、意根が容易に気づかない思量があり、意根は深く考え、意識よりも多く工夫し、意根の思量を主とする。ここには定と慧があり、定とは正定であり、邪定にはこのような思量はない。自分は着実に工夫を重ね、思量の技巧を掌握し、思量を学べば、必ず益があり、百益あって一害もない。

禅定中の昏沈にはいくつかの原因があり、原因を見つけ出し、対治すれば、昏沈の問題を解決できる。一つは気血が通じず、血管が詰まり、供血不足になると昏沈する。座っている時にツボをマッサージし、気血を通じさせる。一つは睡眠不足あるいは身体の疲労である。呼吸を調節し、数回深呼吸をする。一つは意根が興味を持つ所縁の法が不足し、心が沈滞する。この時は面白い図景を観想し、心を沈滞から解放する。

禅定がない時は、まず仏法を観行してはならない。定力が不足している時も、仏法を観行してはならない。そうすると推理・推論で一つの結論・答えを出しやすく、その後真に工夫して参究することができず、後続の実証が難しくなり、道業が大きく阻害される。禅定のない思惟観行は、解脱に益なく、道業に益なく、ただ知見と我慢を増長し、我見を断除できず、功徳の受用がない。

——生如法師の開示
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