問:もし意識のみが第八識を証得し、意根は第八識を証得しておらず、意根による証得も行われていない場合、その人物が死後に極楽浄土に往生した、あるいは天界に生まれたとします。極楽浄土に至った後、色身は天人の身体となり、意識は新たに生まれた天人の意識となります。もし意根が第八識を証得していなければ、この人物は極楽浄土において依然として悟りを開き心を見た菩薩と言えるのでしょうか?その果位は何でしょうか?凡夫が極楽浄土へ往生する場合と状況は同じなのでしょうか?共に凡夫に属するのでしょうか?凡夫と同じ待遇を受けるのでしょうか?
答:衆生が如何なる世界で如何なる形態で存在しようとも、その身分と果証は意根を主体とします。意根が何であるかによって衆生の本質が決まります。なぜなら意根は衆生の主人であり、作主識(行為主体の識)であるからです。また業の種子と相応し、後世へ連続するため、意根がどのような業を造作したかによって、どのような果報を受けるかが決まります。意根が凡夫の業を造作すれば、後世は凡夫となります。意根が我見を断てば、後世は初果から四果の聖者となります。意根が明心見性すれば、後世は悟りを開いた菩薩となります。七つの果位は、意根の明(智慧)と無明の程度によって定まります。
もし人間の身において意根が第八識を証得していなければ、それは凡夫です。後世に極楽浄土へ往生するのは凡夫の身分であり、極楽浄土に至っても依然として凡夫です。蓮華の中に数劫から無量劫の間留まり、業障がある程度消除されると、華開見仏(蓮華が開き仏を見る)し、法を聞いて道を悟り、初めて真の菩薩となります。人間の身にある時の意識による理解は根本的な作用を起こしませんが、ある程度意根に薫染(影響を染み込ませる)されれば、対応する微弱な種子が貯蔵され、後世において意根がやや容易に薫習(影響を受け)証悟する可能性が生じます。
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