衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月24日    水曜日     第3開示 合計943開示

真なる断我見と偽りの断我見の区別

仏法の修証においても、真に修証を得たものと偽りの修証とに分かれる。我見を断つことにも真の断我見と偽りの断我見の区別があり、明心にも真の明心と偽りの明心の区別がある。真実と虚偽が世俗生活と仏教修行に満ちており、人々が識別することを容易にしない。凡そ偽りのものは、意識の表面にあるもので、装ったものと言え、作為的である。凡そ真実のものは、末那識(意根)の深層と相応するものであり、末那識が認めたものであり、心の奥底から滲み出るものであり、心の底から発せられるものであり、作為的ではなく、人に信頼され、誠実で偽りがない。

もし断我見が単に意識のみの断我見であり、末那識が我見を断たないならば、末那識は三結(さんけつ)を断除しておらず、末那識の心行は依然として三悪道と相応し、縄を解いていないのであれば、三悪道に入らないことを保証できない。なぜなら、三悪道に入るか否かは業種と業力によって決定され、末那識は業種と業力と相応する三世を繋ぐ識心であるからである。末那識が三結を断除していなければ、業種は変化せず、命終には業力に引かれて三悪道に入ることになる。末那識が中有(ちゅうう)における振る舞いを観察すれば分かるように、末那識は中有において完全に自らの煩悩習気と相応し、必ず自らの煩悩習気の現行に随って転生するのである。

意識心には全く手段がない。なぜなら意識は主導できず、また断滅するものであり、断除後のことについてはなおさら主導できないからである。したがって、意識のみを修めても全く役に立たず、意識が我見を断つだけでは生死の問題や三悪道に入らない問題を解決できない。一歩譲って、意識が三悪道に堕ちないことを決定できるとしても、臨終時には意識が先に滅し、末那識と如来蔵のみが存在し、意識は存在しなくなる。しかし末那識と業力は依然として存在し、末那識の結縛が断除されていない以上、当然三悪道に堕ちることを免れない。意識は業種・業力と相応せず、三悪道に行くか行かないかについて、意識は全く決定できず、意識自身の存在の有無すら決定できないのである。どうして三悪道に行かないことを決定できようか。

——生如法師の開示
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『大乗顕識経』解説

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