原文:その時、諸比丘たちは世尊のもとにおり、多くが疲れて眠り、容姿は萎え、自らを保つことができなかった。そこで世尊は顔面から輝きを放ち、蓮華が開くようであった。その時、諸比丘たちは皆目覚め、各自姿勢を正し、このように思った。今、仏世尊の御顔は輝きに満ち、光が朗らかに照り、どのような法眼を開き、大いなる利益をもたらそうとしているのだろうか。
釈:この時、比丘弟子たちは世尊の講堂におり、大多数が少し疲れて睡魔に襲われ、顔つきは萎え、まもなく保てなくなり、眠りかけていた。仏が上で説法しているのに、下にいる比丘たちはすでに疲れ、眠ろうとしており、姿形も端正ではなく、あくびをする者、居眠りする者がいて、身体を端正に保てなかった。
世尊はこの状況を見て、これらの比丘たちを目覚めさせるために、神通力を現わされた。「面門暉発」とは、顔面が蓮華が開くように輝きを放つという意味である。この時、比丘たちは仏が神通力を現わして光を放つのを見て、睡意がすっかり消え、精神が充実し、各自身体の姿勢を正し、心の中で思った:「仏は今、神通力を現わし始め、面色は光り輝き、明るく照り輝いている。いったいどのような大法を説き始め、衆生に大いなる利益をもたらそうとしているのだろうか?」
原文:その時、賢護勝上童真は、容姿を整えて豊かに美しく、柔和で光沢があり、色相を具足していた。六万の商主たちが前後に取り囲み、侍従の群れは轟くように鬱蒼とし、その声は地震のようであった。彼らは仏のもとを訪れ、仏世尊が寂静で安穏、衆徳の蔵であり、威厳に満ちて赫々と輝き、大いなる金の樹のようであるのを見た。深く心から信頼し敬い、合掌して思惟し、このように思った。「衆は共に称賛する。仏は一切智であり、一切を普く見通す。この如来阿羅訶は正等覚者であり、誠実で虚妄ではない」。そして仏足を頂礼し、じっと見つめて立った。
釈:この時、在家者で賢護勝上童真という名の者がいた。童真とは彼がまだ童子身であることを意味し、勝上はこの人物が特に優れており、あるいは福徳の面で、あるいは智慧の面で、一般の人々を超越していることを表している。彼の外見は整って豊かに美しく、柔和で光沢があり、色相を具足していた。これは賢護菩薩の前世で積んだ福徳が非常に大きかったことを暗示しており、そのためにこのように荘厳な色相を得たのである。六万の商主たちが前後に彼を取り囲み、彼に仕える侍従の数は多く、人々が一緒に歩く音は地震のようであった。これは賢護菩薩の福徳がいかに広大で深いかを示している。
この時、人々は一緒に賢護を囲んで仏が説法する場所に来た。賢護菩薩は世尊が本座に端座し、寂静で安穏に見え、穏やかな外見の中にすべての偉大な威徳の徳蔵が隠されているのを見た。仏の五蘊の身体の中、言動や容貌の中に、数えきれないほどの仏陀の徳行が隠されており、至る所に仏が衆徳の蔵であることを示していた。仏の外相である三十二相は威厳に満ちて堂々とし、威厳と慈愛に満ち、赫々と明るく、まるで大きな金の樹のようであった。
賢護勝上童真は仏がこのように相好が荘厳であるのを見て、世尊に対して深い敬重の心を起こした。そこで合掌して思惟し、このように思った:「すべての衆生は共に仏徳を称賛し、仏陀の一切智は一切の法を見通す。」一切智は小乗では、仏が三界の生死輪廻から解脱する智慧を表し、仏の大乗の一切種智は、仏陀が世間・出世間の一切法を証得したことを表している。仏の無垢識に含まれるすべての種子の機能作用を、仏陀はすべて余すところなく了知しており、知らない法は一つもない。これを一切種智という。
賢護菩薩はさらに続けて思った:「世尊は確かに如来阿羅訶正等覚者であり、真実で虚妄ではない。」賢護菩薩は世尊が仏の十種の名号の功徳を具えていることを称賛した。仏の十種の名号とは、如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊である。そこで賢護勝上童真は仏足を頂礼し、注意深く世尊を瞻仰した。
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