我見を断つことは第六住位であり、明心は第七住位である。我見を断たなければ、明心することはできない。我見を断たずに明心すると、二つの我が現前し、慢心が深く重くなり、大騒ぎすることになる。
五蘊の我の虚妄を証得しなければ、どうして無我と相応することができようか。証得せずに相応していると感じるのは、意識の思い込みに過ぎず、根拠がなく、情思意解に属する。意識の錯覚こそが我性の表れであり、自己と実情を理解していなければ、自らを高く評価することになる。多くの人々がこのような状態にあり、何も証得していないのに、自ら心が空じたと思い込み、四相がなくなった、夢幻のようだ、涅槃に入ろうとしている、有相戒は修める必要がない、心戒を修め始めたなどと考え、すぐに高慢になる。これは仏法の修証に対する大きな誤解である。
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