衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年07月28日    日曜日     第1 回の開示 合計1728回の開示

どのようにして解釈ではなく実証を確保するか

観行と参究の初期段階において、意識は法義を多面的に思惟し学び、法義の大まかな教理を理解することができます。その後、参禅の因縁条件が整った際には、禅定を修得した基盤の上で、意識が理解した法義の内容を凝縮し、非常に理解しやすい意味を形成し、深く心に懸けて朝に夕に精進し、寝食を忘れて修行に励むことが、すなわち参究であります。

意識による分析的な思惟を減らし、意根自らに思量考量させることが、実証を確実にする最も効果的な方法です。意識の思惟分析が過多になると、一旦答えを知ってしまうと再び参究する意欲を失い、意根が参究する機会を奪われ、永遠に悟りを証得できなくなります。故に明心の答えを安易に尋ね出し、軽々しく語ることは、意識が知ってしまえば意根が修行できなくなり、証悟が不可能となります。我見を断つ内容についても同様に、師に細かく解説を求めてはならず、もし意識が全てを知ってしまえば、意根が再考する余地がなくなり、我見を断つことが極めて困難となります。

意識による思惟は疲労を感じさせますが、意根が多用しても疲労を感じません。禅定が極めて良好な状態にあれば、意根は観行に参与できますが、禅定がなければ意根は介入できず、専心して思量考究することができません。参禅時の疑情とは、まさに意根が一心に理解し答えを見出そうとする心理状態です。法義を意根に審査させ、一旦審査が明確に通過すればそれが証得となります。意識を重視する者は意根を木偶の坊と見做しますが、もし観行参究に本当に意根を用いないのであれば、今すぐ全世界に実証の答えを公表し、学仏の有無を問わず全ての人々に答えを知らしめ悟りを開かせることができるでしょうか。決して不可能です。各人が自ら食事を摂って満腹するように、思想的見解が代替し得るものではないのです。

意根の恒常に審査し思量する「審」の字は、意根の心理活動を明らかにすると共に、意根の果たす役割をも明示しています。これは意根が無用の存在ではなく、極めて重要な決定的役割を担う活発な識心であることを示しています。意根はあらゆる法に触れる度に審査を加え、六識が了別した法に対しても審査を加えます。審査を通過すれば決定を下し処理を施します。では意根は参禅において、我見を断つ際に、明心見性において、一切法を証得する際に、それぞれどのような役割を果たすのでしょうか。全てにおいて決定的な役割を担っているのです。

一切の法は意根による検閲を経なければならず、意根が審査に合格しなければ処理できません。意根が審査する際には独自の識心活動が生じ、自ら考量を加えるため、六識に完全に従うものではありません。六識が了別した内容を直ちに認可するわけではないのです。故に六識の一切の所見は、意根に明瞭に理解させなければなりません。意根が明瞭でなければ審査は不合格となり、関門を突破できず、意根は決定を下せません。我見を断つこと及び明心見性は、いずれも意根の審査検閲を経なければならず、意根が同意しなければ我見を断つことも明心見性もできません。意識が一方的に我見を断ち明心したと主張することは、意識自身の理解に過ぎず、主人である指導者が同意しなければ無効です。意識が指導者の同意を得ずに独断で我見を断ち明心したと主張するなど、道理に反することです。

——生如法師の開示
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