衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年07月29日    月曜日     第4 回の開示 合計1735回の開示

仏道修行は長き旅路である

主人が部屋で花を鑑賞しながら独り言を述べた。「赤い花は美しい」。すると傍らにいた鸚鵡がこれを聞き、続けて「赤い花は美しい」と繰り返しました。鸚鵡の言葉は如実語でしょうか。現量観察でしょうか。花の赤さと美しさの本性を証得したのでしょうか。いずれでもありません。鸚鵡はただ言葉を真似ただけで、この言葉の内実を何一つ理解せず、ましてや自らが語る内容すら認識していないかもしれません。つまり、何かを語れるからといって、即修行を積み証得を具えているとは限らないのです。

仏典には、十信位の衆生が仏法を学ぶには数多劫を要し、逢仏するにも数多尊を経ると説かれています。無量数劫にわたる仏法修行をもってしても、ようやく初地菩薩の境地に至るのです。悟りを開き真心を明らかにした住位菩薩でさえ、初地菩薩まで残り三分の二の修行時劫を要し、成仏の道程の九分の一を歩み終えたに過ぎません。これは既に極めて長遠な時劫をかけた修行であり、実に容易ならざるものです。ここに見える通り、仏法修行は容易なことではなく、道業が一層進むごとに要する時間と精力は計り知れません。故に誰もが油断すべからず、自分が理解しただけで何らかの果位を成就したと思うべきではありません。そのような単純なことではないのです。もしその道程を歩んだことがなければ、前方の路途も見えず、想像だけで当然のように簡単に思え、成仏が容易だと錯覚するでしょう。既に成仏を遂げた者こそ、成仏の道が究竟どのようなものかを知り、経験した事柄を語るに足る確かな根拠を有するのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

どのような人々が随縁できるのか

次の記事 次の記事

現代において意根を多く説く必要がある理由

ページのトップへ戻る