主人が部屋で花を鑑賞しながら、独り言のように言った:「赤い花が美しい」。するとそばにいた鸚鵡がこれを聞き、続けて言った:「赤い花が美しい」。鸚鵡の発言は真実の言葉でしょうか?現量による観察でしょうか?花の赤さと美しさを証得したのでしょうか?いずれでもありません。鸚鵡はただ言葉を真似ているだけで、この言葉の内実を何一つ理解しておらず、自分が何を言っているのかさえ知らないかもしれません。したがって、何かを語れるからといって、修行があり実証があるとは限らないのです。
仏典によれば、十信位の衆生が仏法を学び始めてからすでに数劫を経て、遇った仏も数多くいます。一つの無量数劫にわたる仏法修行でも、初地の菩薩の境地に至るのがやっとです。悟りを開き明心した住位の菩薩でさえ、初地の菩薩までにはあと三分の二の修行時劫が残っており、成仏の道の九分の一を歩み終えたに過ぎません。これはすでに非常に長遠な時劫をかけた修行であり、大変なことです。ここからも、仏法を学び修行することは容易なことではなく、道業が一歩進むごとに要する時間と精力は計り知れないことがわかります。したがって、誰もが軽く考えてはならず、自分は理解しただけで何らかの果位を成就したと思うべきではありません。そう簡単なことではないのです。もしその道を歩んだことがなければ、前方の道のりも見えず、想像だけで当然のように「成仏は簡単だ」と思ってしまいます。すでに成仏した者だけが、成仏への道が実際にどのようなものかを知っており、経験したことを語ってこそ信頼できるのです。
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