衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年07月30日    火曜日     第1 回の開示 合計1737回の開示

あらゆる三昧は意根によって証得される

意識の解は証ではなく、意識は五蘊の主人ではないからです。一切の法、明理や証悟などを含め、何一つとして主となることができず、その見解は全て無効です。しかし修行においてはまず意識による解があり、その後意根による証が続きます。証はまず解から離れることができず、解に留まらない限り、後の証は遅かれ早かれ訪れるものです。

『楞厳経』に曰く「菩提涅槃は尚遠く、汝が劫を歴て辛勤に修証せざれば、十方如来の十二部経の清浄なる妙理を憶持すること恒河沙の如くとも、只だ戯論を益すのみ。汝が因縁自然を談説し決定明瞭なりと雖も、人間汝を称して多聞第一とす。此の積劫の多聞薫習をもってしても、尚摩登伽の難を免離すること能わず」と。

ここで世尊は既に菩提の修証が単純なものではないことを明言されたのではないでしょうか?経典の暗誦や復唱、全ての多聞は戯論に過ぎないと。故に申し上げます、これほど多くの証果断我見や明心は全て解に過ぎず、戯論であると。未だ覚らずしていつを待つというのでしょうか。

もし意識が三昧を証得し、意識が明心するのであれば、機縁が熟した時、我々が幾万人もの法会を組織し、五蘊の中における如来蔵の種々の働きを大衆に説けば、聴衆の多数は理解するでしょう。そして私が「如来蔵の運営過程を理解し証得した方はどれほどいますか」と問えば、皆が手を挙げるでしょう。そうなれば皆様の証悟を祝します。このような形であれば、2万冊の菩薩証明書では到底足りず、10万冊を追加印刷しても恐らく不足するでしょう。このような方法で良いのでしょうか?意識の理解を以て証悟とするなら、私は明らかに申し上げます、皆様の意識は既に全て理解しているのではないですか?理解したなら証悟なのですから、何故皆様に禅定や参究の修行をさせ、これほどの回り道をさせる必要があるのでしょうか。

意識の理解を証と見做すなら、一世界に一人でも証得者がいれば、全ての人に伝えることができ、十人に伝え百人に広がり、そうすれば全世界の人々が皆証得するのではないでしょうか?何故禅定修行や参究が必要なのでしょう?仏が弟子たちに戒定慧を修めさせたのは何故でしょうか?戒律を守る必要もなく、ただ意識が聡明であれば仏法を証得し生死を超越できるというのであれば、七覚分や八正道、三十七道品などの修行は不要であり、仏陀は余計なことをしたことになります。仏法はこれほど単純なものなら、何故これほど複雑にしたのでしょうか。

もし意識の理解を証悟とするなら、我々は座って夢境を回想し、現実世界が夢の如きものだと思惟すれば、即座に夢幻観を証得し十回向位を成就して入地を目前にします。更に座って一切法が鏡中の像の如しと思惟し、鏡影を対照的に観察すれば、確かに鏡影の如しと悟り、境像観を証得して初地満心となり二地菩薩となります。このような仏道修行は実に楽勝ではないでしょうか。

仏法の証得や成仏が何故容易でなく三大阿僧祇劫を要するのか?それは意根が愚鈍で無明が深く、法義を理解し難いからです。もし証悟が意根の証を伴わないなら、修行は確かに容易であり、成仏に三大阿僧祇劫もの長い時間を要することはなく、瞬く間に全行程を終えるでしょう。

——生如法師の開示
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