意識の解は証ではない。なぜなら、意識は五蘊の主人ではなく、明理証悟など一切の法に対して主導権を持たず、その見解は全て有効ではないからである。しかし修行においては、まず意識による解があり、その後で意根による証が生じる。証はまず解から離れられず、解に留まらなければ、後の証は遅かれ早かれ訪れる。
『楞厳経』に曰く:菩提涅槃はなお遥かに遠く、汝が劫を歴て辛勤に修証せざるにあらず。復た憶持すとも、十方如来の十二部経の清浄なる妙理、恒河沙の如しと雖も、只だ戯論を益すのみ。汝は因縁自然を談説し、決定明了なりと雖も、人間は汝を称して多聞第一とす。此れを以て積劫多聞の熏習も、摩登伽の難を免れ離るることを得ず。
ここで世尊は既に明確に、菩提の修証がそれほど簡単ではないと説かれたのではないか?経典を暗誦復唱すること、全ての多聞は戯論であると?故に私が言うには、あれほど多くの証果・我見断ち・明心は全て解であり、戯論である。未だに覚醒せず、更に何を待つのか?
もし意識が三昧を証得し、意識が明心するならば、機縁が熟した時、我々が数回の万人法会を組織し、如来蔵が五蘊の中で行う種々の働きを大衆に説けば、大衆は聴き終わって多数が理解するだろう。その後、私は「如来蔵の働きを理解し、如来蔵を証得した方はどれほどいますか」と問う。皆が手を挙げれば、私は皆が証悟したことを祝福する。そうなれば、二万冊の菩薩証明書では絶対に足りず、更に十万冊印刷しても恐らく足りない。これでうまくいくのか?意識が理解すれば証悟だとするなら、私ははっきりと皆に告げよう:諸君の意識は全て理解したのではないか?理解したなら証悟であるなら、どうして皆に禅定を修め、参禅させ、そんなに多くの回り道をさせる必要があるのか?
意識の理解が証であるなら、一つの世界でたった一人が証得すれば、全ての人に伝えられる。一から十へ、十から百へと広がり、そうすれば全世界の人が皆証得するのではないか?禅定も必要か?参究も何のためか?仏がなぜ弟子に戒定慧を修めさせたのか?戒を守る必要もなく、意識が聡明であれば仏法を証得でき、生を了え死を脱するのか?七覚分・八正道・三十七道品など、これらを修行する必要はない。仏陀は全く余計なことをし、くどくどと衆生を困らせた。仏法はこんなに簡単なことなのに、なぜ複雑にしたのか?
もし意識の理解が証悟であるなら、我々は座り、夢を回想し、現実世界が夢と同様であると再び思惟すれば、夢幻観を証得し、十回向位を成就してまもなく初地に入る。次に座り、一切法が鏡中の像の如しと思惟し、鏡に映った影に照らして考え、確かに全て鏡の影のようだと悟れば、境像観を証得し、初地満心となり、二地菩薩となる。これで仏法を学ぶのは非常に楽で愉快ではないか?
仏法を証得し成仏することがなぜ容易でないのか、なぜ三大阿僧祇劫を要するのか?それは意根が愚鈍で無明が深重であり、法義を理解し難いからである。もし証悟が意根の証に関わらず、修行が確かに非常に容易であるなら、成仏に三大阿僧祇劫という長遠な時間は全く必要なく、すぐに全行程を終えるだろう。
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