妄心の知性は、一つは六識の知であり、もう一つは意根の知である。禅定の深浅によって、知る際の専注と散乱に違いがあり、知る内容には深細と広狭の差異が生じる。
見聞覚知の性質は、識の種子に心所の働きが加わった機能作用である。これらの作用は刹那に生滅変異し、水流の如くである。無数の水滴が形成する水流は、風力と慣性の作用で、急に速くなったり遅くなったり、強くなったり弱くなったり、途切れたり続いたりする。識の種子が形成する識心は、心所の働きによって、その了別性が急に強くなったり弱くなったり、速くなったり遅くなったり、細かくなったり粗くなったりする。蛇口を閉めると水滴が流れ出ず、水流は消失する。識の種子が流注しなくなると、識心は消失する。そのスイッチはどこにあるのか?
一切の法を知る際に、自らのこれらの知を反観するならば、それは意識の知なのか、それとも意根の知なのか?意識の知は知るに留まり、改めることができず、実現できない。意根の知であれば、直ちに実現でき、自らを改められる。仏法が意識の段階まで修められたとしても、それは百尺の竿の先に過ぎず、さらに一歩を進めて意根の境地に到達せねばならない。全ての法がここに到達したならば、直ちに仏と成り、もはや修める必要はない。
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