色薀尽と受薀尽はどちらも証得されていないが、理論的には受薀尽の状態を説明できる。楞厳経によれば、受薀尽の時、その心は身を離れるとあり、つまり身体に意識心がなくなり、身体に受覚がなくなることを意味する。痛みや軽安快適な覚受がなくなる。その時は殺されても切り刻まれても、生かされても痛みを感じず、手足や頭を切り離しても痛覚がなく、身体はまるで木のようになる。では、識心は身体の中にあるのだろうか?
もし識心が色身の中にあるなら、色身を少しずつ切り開けば識心を見つけられるはずだが、どうしても見つからない。ゆえに識心は色身の中にはない。もし識心が色身の外にあるなら、それは色身とは無関係であり、色身には五薀の機能作用がなくなる。したがって識心は色身の外にもない。もし識心が中間にあるなら、そもそも中間という概念や場所は存在しない。もし身体の表面を中間と呼ぶのは誤りであり、身体の表面は色身に属する。もし身体の表面の外で身体に接する場所を中間と呼ぶなら、それは色身の外に属する。ゆえに識心は色身の中間にもない。
では識心はどこにあるのか?六識は何を了別しても、全て了別の影に過ぎず、外界の六塵の原貌ではない。原貌は第八識によって了別され、本質境と呼ばれる。
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