衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年08月01日    木曜日     第3 回の開示 合計1747回の開示

口癖は修行や実証に等しからず

悟り以前の修行には多くの階梯があるように、悟り後の修行も同様に数多くの段階に分かれます。悟り前に悟り後の方法で修めようとしても成就することはありません。開悟したばかりの者が地上の菩薩の修行法を実践しても、同様に効果は現れないのです。高遠な理論を手に抱えて、自らがすでに証得したと思い込み、聖人や如来蔵の如くであると考えるのは、まさに自らを欺く行為に過ぎません。多くの人々が「煩悩即ち菩提」という言葉を見て、煩悩を如来蔵の幻化と見なすことが修行だと考え、煩悩を調伏する方法を講じようとしない結果、煩悩は依然として煩悩のままであり、菩提は菩提のままです。死後もなお生死に沈淪するならば、何の益がありましょうか。

ある者は如来蔵に修も証もないことを理解すると、七識五陰もまた修証を要しないと考え、それならば如来蔵も本来仏であるから、自分は家にいて仏を成じればよいと錯覚します。如来蔵が分別しないのだから自分も分別すべきでない、一切の法は分別によって生じるのだから、再び分別心を起こさなければ法は空無になると考え、そうであれば七日間飢えても何ら意見を持つ必要はないと考えるのです。

一切の法が確かに幻化の如きものであることは、十住位以上の菩薩の修行証量です。もし自らがこの修行の境地に達しておらず、まだこの実際の証量を持たないのであれば、日々幻化という言葉を口辺に掲げて口頭禅と化してはなりません。如来蔵が戒律を保持しないからといって、ある者は自分も如来蔵のように戒律を守る必要はないと考え、任運に逍遥し、形骸を放浪します。自らの心が貪瞋痴を具足していることを知らない者が、どうして形骸を放浪し任運に逍遥できましょうか。口福さえ捨てられない者が、空しく高大な言論を叫び、空虚な議論は往々にして国を誤ります。一丈を説きながら一寸も行じ得ない者は、しっかりと地に足をつけて実際の修行に励むべきであり、もはや高談闊論して手高く目低きを続けてはなりません。

——生如法師の開示
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《増一阿含経》巻第四十六

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