五蘊は自分であるという邪見は、愚痴の心所法に属し、意根は先天的に愚痴無明を有しており、五蘊身を自分と認め、意識もそれに従って愚痴邪見を持つ。修行によって二つの識の愚痴無明を破ることができ、それによって我見を断じて聖果を証得し、その後愚痴の心所法は一分変化する。
では、意根に「身体は仮のもので実体がなく、覚受も真実ではなく自分ではない」と伝えさえすれば、何とかして意根にこれらが全て自分のものではなく真実でないと信じさせられれば、我見を断てるのでしょうか?意根の無明は重く、意識が何を伝えてもそれを即座に信じるわけではなく、十分な証拠資料を必要とし、それらのデータに基づいて自らの審査と思量を行い、自ら判断を下す。愚痴が深刻な場合、証拠が確固とし事実が充分であっても、すぐには確認できず、五蘊無我という事実を認めたがらない。長期にわたる薫陶が必要で、少しずつ変化していく。三尺の氷は一日の寒さでできるものではなく、長年積もった堅い氷は数日の陽光で溶けるものではない。
ある人が「我見を断った後は、徐々に自分の覚知を断ち切り、寒暖や痛痒などを感じなくなるのか」と尋ねた。そうではない。我見を断つのは単に不正確な邪見を除くことであり、知覚を滅することはできない。知覚を滅するには極めて深い四禅定が必要であり、我見を断たずとも達成可能である。四禅定において色陰区宇と受陰区宇を破って初めて、色身の覚受を空じることができる。そうでなければ阿羅漢でも色身に様々な感受があり、ただ執着しないため苦痛はそれほど感じず、少なくとも意識心の感受はそれほど悩ましくないが、身識の感受は凡夫とほぼ同様である。
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