現代人は苦行に耐えることができず、言い訳として「苦行は道ではない」と言います。苦行自体は道ではありませんが、道を修めるには苦行が不可欠です。これは人が様々な貪欲から解脱する能力を備え、無欲清浄の心で修行すれば速やかに悟りを得られることを示しています。釈迦仏の本生譚を読めば分かるように、無量劫にわたり苦行を重ね、半句の偈を得るために身を羅刹に施したほどです。諸仏菩薩は因位の修行において皆苦行を主とし、貪欲の享受を選びませんでした。ところが現代では修行の風潮が逆転し、苦行を否定して貪欲を享受しながら聖人の名誉と果位を求める者が増えました。魚と熊の掌を両立させることはできようか。
貪欲が深く捨てられない者が、その心理を隠すために「菩薩は大福徳ある者だから、衆生を摂受するために福徳を示すべきだ」と言い訳します。こうして彼らはあたかも成就したかのように常に享受を求めます。それならば、釈迦仏は福徳のない方であったのでしょうか?出家後は福徳を享受できなかったのでしょうか?十方諸仏菩薩は修行中みな福徳がなく、故に福徳を大切にされたのでしょうか?西天二十八祖や東土六祖、過去の高僧大徳は皆福徳のない方々だったのでしょうか?
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