衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年08月03日    土曜日     第7開示 合計1761開示

苦行と修道の関係

現代人は苦行に耐えられないため、「苦行は道ではない」と言い訳をする。苦行は道ではないが、修行は苦行なくして成り立たない。これは、様々な貪欲から解放される能力を持ち、貪欲のない心と行いによって、心が清浄になり修行が速やかに進むことを示している。釈迦仏の本生修行の事跡を読めば、釈迦仏が無量の世で苦行を重ね、半句の偈を求めるために身を捨てて羅刹に施したことさえあったと分かる。諸仏菩薩は因位の修行において、皆苦行を主とし、貪欲を享受しなかった。ところが現代では、修行の風潮が逆転し、苦行は道ではないとされ、貪欲を享受しながら聖人の名誉と果位を追い求めるようになった。二兎を追う者は一兎をも得ず、というわけだ。

貪欲が強く捨てられない者が、その心理を隠そうとして、「菩薩は大いなる福徳を持つ者であり、衆生に自らの福徳を示すことで初めて衆生を摂受できる」と言い訳をする。そのため、こうした人々は至る所で享受を講じ、あたかも成就したかのように振る舞う。もしそうなら、釈迦仏は当時福のない者であり、出家後に福徳を享受できなかったのか?十方の諸仏菩薩は修行中、皆福のない者だったのだろうか?修行中に福を享受できなかったからこそ、あれほど福徳を大切にしたのか?西天二十八祖や東土六祖、過去の時代の全ての禅師や大徳たちは皆、福のない者であり、福徳を享受できなかったのだろうか?

——生如法師の開示
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