衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年08月05日    月曜日     第2開示 合計1771開示

禅定の功徳

問:座禅で呼吸の出入りを観じていると、後には観じるという念だけが存在し、呼吸の出入りを観照していない状態で、ほぼ一時間ほど入定しました。このような状態は適切でしょうか。

答:観じる側は見分であり、観じられる対象は相分です。観じる側が存在すれば必ず観じられる対象があり、観じた結果を自証分と呼びます。心に観じる意識はあるが呼吸がない場合、他の相分が存在しているか、さもなければ二禅定に入っている状態です。

呼吸を観じる目的は、心を摂め一箇所に定着させるためです。一つには定を得、二つには観の智慧を生じさせ、法を証得するためです。ですから観じる対象に呼吸がなくともよく観じられ、心がしっかり定まり一定の目的を達成しているなら、何も間違っていません。定力が十分に高まった時点で、再び心を呼吸観に移し、呼吸が生滅変化して無常であり、我にも我が所有にも属さないことを証得するまで続ければよいのです。

いかなる種類の禅定であれ、外道の定であれ内道の定であれ、心を摂することが戒であり、ただそれを活用すればよいのです。心が摂められた後、定の中で仏法を観行することは、いずれも非難されることではありません。仏陀が修した四禅八定は外道の定であり、その四禅定の中で仏法を思惟し、阿耨多羅三藐三菩提を証得されたのです。外道と共通の四禅八定がなければ、諸仏も成仏できず、凡夫は菩提を証得して菩薩となることもできません。黒猫でも白猫でも、ネズミを捕まえれば良い猫なのです。

定を修めるのは観行の智慧を得るためであり、観行の智慧があれば仏法を証得し、大いなる智慧を生じさせることができます。どのような定か、どう定めるかは気にせず、定まればそれでよい。凡夫の猿のような心がさまようよりはましです。目標を定め、その目標に向かって進めばよく、水路か陸路かは気にせず、真っ直ぐな道であればよいのです。

外道の色身と仏法を学ぶ者の色身は同じであり、仏法を学ぶ者の心と外道で仏法を学ばない者の心も同じです。もし心を調伏するためなら、世俗の心理学や生理学も同様に仏法を学ぶ者に適用でき、心を調伏することが重要です。

定を修めるのは観行のためであり、観行は智慧を生じさせるためです。そして智慧の生起は一時間という時間にこだわる必要はありません。もし一時間無心定に入り、思惟がなくとも、出定後に身心が爽快で感覚が非常に良く、一日中身体が楽で気分が良く、煩悩が生じず、思惟が鋭敏で反応が機敏になり、人や事柄に対応するのに智慧があり、教養や品位も高まり、徳性が向上するなら、どうしてそうしないことがありましょうか。禅定は身心世界を調伏し、人柄の教養を高めるために用いるものであり、心も養い道も養うのです。どうしてそうしないことがありましょうか。

——生如法師の開示
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