成熟していない業の種子を、第八識は縁することができるか。もちろん縁することもでき、了別することもできる。俱解脱の阿羅漢の神通は衆生の八万大劫前後のことを知ることができるが、これほど長い時間が経ってから起こることを、なぜ阿羅漢は知ることができるのか。それは阿羅漢の意根が自らの如来蔵に依って未来世になって初めて成熟する業の種子を了別し、意識が意根に依って未来世の業の種子の現行状況を了別できるからである。神通を持つ地上の菩薩が了知できることは阿羅漢をはるかに超え、この時間範囲よりもさらに大きく、仏の神通力は菩薩たちよりもはるかに優れており、一つの無量劫、二つの無量劫後のことを知ることができる。例えば、仏が八地の菩薩に一つの無量劫後のある時に成仏することを授記し、時には初地の菩薩にも授記することがある。
仏・菩薩・阿羅漢はなぜこれほど遠い昔や未来のことを了別できるのか。これらはすべて禅定と智慧が結びついた結果である。仏・菩薩・阿羅漢はどの識心が久遠劫以前や久遠劫以後のことを知るのか。意識が知るのであり、意識は意根から知り、意根は如来蔵から知るのであり、如来蔵は自体中の業の種子を了別して知るのである。しかし、如来蔵が知る内容と六・七識が知る内容は異なる点がある。
もし仏が衆生を観察すれば、衆生の三つの無量劫以前の経歴を観察でき、無数の無量劫以前の経歴さえ観察できるが、これはどういうことか。久遠劫前に起きたことは、目の前で起きていることのように、まるで今起きていることを見ているかのようであり、これが現量で観察されたものであり、現量の境である。久遠劫以後に起きることについても同様に、目の前で起きていることのようである。久遠劫前に起きたことについては、その業はすでに消滅しているかもしれないし、久遠劫以後に起きようとしていることについては、業の種子はまだ成熟には程遠いが、仏はどうやって知るのか、どの識心が知るのか。ある業の種子はまだ形成されず、業行はまだ造作されていないが、仏はどうやって知るのか、菩薩はどうやって知るのか、阿羅漢はどうやって知るのか。
神通を持つある外道は、一、二年後や数年後に起きることを知ることもできるが、業の種子は同様に成熟していない。彼はどの識で未来のことを了知するのか。占い師も臨命終前に起きようとしていることを知ることができる。神通のない者でも、如来蔵は成熟していない業の種子を縁することができ、意根は如来蔵に依って未来世に起きようとしていることを証得できるが、ただ一時的に意根から知ることはできない。
八地の菩薩になって初めて六根が互いに通じ、俱解脱の大阿羅漢は六根が互いに通じることができる。普通の神通は六根互通とは程遠いが、それでも未来世のことを知ることができる。この知は意識が知るのであるが、では意識は未来世の成熟していない業の種子を知ることができるのか。意識は明らかに業の種子を知ることはできず、現在のものであれ過去や未来のものであれ同様である。しかし意根は如来蔵の見大作用に依って必ず知り、意識は意根に依って未来世のことを知ることができる。『楞厳経』で仏は「意根は黙して一切の法を容れる」と言われたが、「容」とは包容し受け入れることであり、「一切の法」とは如来蔵が見るすべての法のことであり、意根はそれに随ってすべてを見ることができるのである。
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