衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年08月05日    月曜日     第6開示 合計1775開示

文字を参究すれば、明心見性できるのでしょうか?

多くの自ら智慧があると思い込んでいる人々は、禅宗の公案の前では手も足も出ない。また、自ら道を得たと思い込んでいる人々は、禅宗の公案を解説する際、すべて世俗の法に陥ってしまい、俗人はそれを好んで読むが、その中に一体どんな真の味わいがあるのか理解していない。仏法を学ぶ人々の中には、文字の殻に閉じこもり、言葉や語彙を分解し、研究に研究を重ねて、表面的な意味を少し理解しただけで道を得たと思い込み、あちこちでそれを貼り付け、慢心が大きくなる者もいる。実際、仏教を学び修行することは、文字の殻に閉じこもることではなく、真の修行は詩の外にあり、菩薩の六波羅蜜に心を砕き修行し、煩悩を降伏させ、心性の修養を高め、福徳を培い、禅定を強化することである。これらの面に努力して修行すれば、菩薩となる条件を絶えず整えることができる。一日中文字の山に埋もれて、それらの文字を研究することではない。もし仏教を学ぶことが単なる文字の技術ならば、大学院生や博士課程の学生は皆、大乗の明心見性の菩薩となれるはずだが、実際はそうではない。また、三帰依も必要なく、五戒を受ける必要もなく、ただ真剣に文字を参究すれば明心見性できると主張する人もいる。それならば、外道は皆聡明な人々であり、外道は仏を信じる必要もなく、ただ仏法を研究すれば仏法を理解できるはずだ。しかしながら、彼らは永遠に大乗の真の菩薩となることはできず、たとえいくつかの答えを知っていても大乗の菩薩ではなく、智慧が生じず、菩薩の心性を持たないからである。聡明な人々はどこにでもおり、しばらく仏法を研究すれば表面的な内容を理解できるが、彼らは菩薩の心性を備えていないため、永遠に真の菩薩となることはできず、仏菩薩や護法善神の加護や庇護を受けることもない。したがって、真に悟りを開くこともできないのである。

——生如法師の開示
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悟りは着実に自然に達成されることが最善

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