仏は賢護を見られると、全身より光を放たれ、賢護を照らされました。賢護はその時、畏れなき心を得て、三度仏を右繞し、仏足を頂礼して申し上げました。「世尊よ、どうか慈悲をもって教えを授けたまわんことを願います。私は今初めて仏のもとで清浄な信心を得、妙法を慕い、お尋ねしたいことがございます。しかし私は長く生死に沈み、煩悩の苦しみに溺れ、乱れた思いが入り乱れ、戒律などの業には無作の冥き助けがありません。心は重く尊ぶものの、今この愚かさと惑い、疑いの網の中から、いかにして超え出て生死を度するべきかを知りません。世尊は一切智者にして、あまねく一切を見通されます。仏の出現は甚だ難く、巡り遇うことは稀なるものです。如意宝珠のごとく、衆生に楽しみを施されます。仏は大いなる如意宝です。すべての衆生は仏に依ることで大いなる安楽を得ます。仏は大いなる父母であり、衆生の善き根本です。仏という父母によって、正しい道を見出すことができます。どうか慈悲をもって、疑いの闇を照らし開きたまわんことを願います」
仏は賢護に告げられた。「汝が疑いあるならば、心のままに問うがよい。私は汝のために分別して解説しよう」この時、賢護は仏の許しを得て、一心に問いを発し、傍らに控えました。
釈:仏が賢護菩薩を見ると、全身より光を放ち、賢護を照らされました。仏が光を放たれたのには目的がありました。それは賢護が仏に法を請うよう励まし、賢護が恐れることなく仏の前で質問できるようにするためです。彼が質問を提出すれば、仏はこの因縁によって、殊勝な大法を説き示すことができます。時に仏はある法を説きたいと思っても、請法する者がいなければ、因縁がなく、仏は法を説くことができません。そこで世尊は意図的にある者に示唆を与え、その者に疑問を生じさせ、法を請うようにし、問題を提出させます。仏はその者が提出した問題に基づいて、仏法を説き明かすのです。賢護は仏の加護を得て、右に三度仏を繞り、仏への恭敬と尊重を表し、それから仏足を頂礼して、問いを発し法を請いました。
衆生の仏に対する信心には、清浄でないものと清浄なものがあります。仏法を学び始めた者は、仏に対する信が清浄ではありません。どのように清浄でないのでしょうか。彼らは仏を盲信し、仏に求めるところがあり、仏の功徳をまだ理解しておらず、仏の神力と大いなる智慧、すべての徳行を知らないため、清浄な信心を生じることができず、心の中にまだ多くの疑問を抱いています。そのため、清浄な信とは言えません。仏が全身より光を放ち賢護を照らされた後、賢護は仏法に対して清浄な信心を生じ、心の中で仏が妙法を説かれることを望み、仏法を尋ねたいと思ったのです。
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