仏法を思う心を心の主念とするためには、当然仏法を重んじ、他の世俗的な人や物事を重要視せず、全ての心遣い、あるいは大部分の心遣いを仏法に注ぎ、できる限り他に気を散らさないことです。自分を低く置き、自我の五陰身を何でもなく、取るに足らず、一芸にも秀でないものと見なし、人々の中にあっては、自分が少し愚かに見えるようにし、それ以外の印象を与えないことです。外に向かって自分が如何に優れているか、文学や芸術の教養があるか、琴棋書画ができるか、歌や踊りが上手か、文章が優れているか、美工編集が得意か、詩詞歌賦に長けているか、権謀術数に巧みか、販売企画が上手か、あるいは権貴であるか、見目麗しいか、一流であるかなどを誇示せず、これらをすべて捨て去り、自分が誰であるかを忘れ、毎日仏法以外はぼんやりと過ごし、生ける屍となって、生きていられれば十分で、世俗には何一つ愛するものがないようにすることです。そうすれば心念はすべて仏法となり、主念は明確になり、道を得られない心配は絶対にありません。世俗の念いを打ち滅ぼせば、汝の出世の法身が現れ出ることを許そう。
一般の人は到底できません。仏法とは俗を離れ俗に背くことですから、どうしようもありません。一方で世俗を享受しながら、他方で仏法の証量を得ようとするのは、魚と熊の掌を兼ねるようなもので、不可能です。まず出世して後に初めて入世できるのです。
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