衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年08月07日    水曜日     第4開示 合計1787開示

第八識は六塵の境界を分別できるでしょうか?

音声を聞く際には、耳識の機能作用があり、意識の機能作用があり、意根の機能作用があり、第八識の機能作用がある。ここでは意識の機能作用のみを述べる。眼識の機能作用は理解しやすいが、意根の機能作用はより深微で理解が難しく、第八識の機能作用は絶対に説くことができない。

もし眼識・意識・意根を離れて第八識が音声を聞くことができるなら、第八識に十方世界の音声を聞かせてみよ。しかし、第八識が一切の音声を聞くことができたとしても、意識と何の関係があろうか。意識は依然として音声の内実を知ることはできない。阿羅漢が無余涅槃に入る時、もし彼の第八識が音声を聞くことができ、何でもできるなら、そのような涅槃は寂静と言えるだろうか。もし第八識が音声を聞くことができるなら、それは男女の声の区別がつくだろうか?音声の美しさがわかるだろうか?音声の源がどこかわかるだろうか?どんな音楽か理解できるだろうか?これらの文字の内容を第八識は理解できるだろうか?第八識の「知」は意識の「知」に取って代わることができるだろうか?もしできるなら、五陰・六識は永遠に滅しても、色を見たり音を聞いたり法を聴いたりすることに影響せず、五陰の活動にも影響しないはずである。

第八識がさらに意根の主宰的な機能作用を持つなら、第八識の我性は明らかになり、もはや無我性の第八識ではなくなる。この「我」が業を造り始めれば、七識に全く劣らないほどであり、生死輪廻は第八識自身の問題となり、七識や五陰とは無関係になる。こうなれば現存する仏法理論体系は完全に覆され、新たな仏法体系が確立されることになる。どちらの体系が正しく、真理と事実に合致するだろうか。第八識が六塵の境界を分別できるなら、第八識に全てのことを行わせ、七つの識を休ませてしまおう。百年間昏睡しても構わない。

また、拳を推し掌を立てる、拳を摩り掌を擦るなどといった動作が即ち第八識であると説き、これを知れば悟りを得たとする者もいる。それならば、今後何かを行う必要がある時は、我々は第八識に行わせ、七つの識は全て休ませてしまおう。死後も何も心配する必要はない。なぜなら第八識は何でもできるのだから、完全に五陰身に取って代わることができ、眠りに落ち昏死した後も、第八識に色を見させ、声を聞かせ、香を嗅がせ、味を味わわせ、触を覚させ、法を知らせればよい。六識が滅しても問題なく、意根があろうとなかろうと構わない。

真実と虚妄の機能作用をはっきり区別できなければ、証果や明心など何も語ることはできない。このように悟り明心を開くこと、離念霊知を悟ることは誰にでもできる。彼らの中にもこのように悟る者もおり、各門各派の悟りにも、このような悟りが多く存在する。しかしこれらの悟りはどれも奇怪であり、皆虚妄を真実とし、真妄を区別せず、密意を悟らないことと何ら変わりがない。

——生如法師の開示
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