出家の師匠や教師に対しては、悪知識という言葉を用いてはならない。真の悪とは、魔王波旬のような心を持ち、故意に衆生を誤導し、正しい道を歩ませず解脱を得させないことを指す。一般の人が教えを説くのは、智慧が不足しているだけで、修行と証悟のレベルに限界があるためであり、故意に衆生を邪道に導こうとしているわけではない。悪意はなく、悪意を持っているのは魔王波旬だけである。波旬は衆生を救う者や解脱の望みを持つ者を恐れ憎む。智慧がないのに教えを説くのが好きな人もいるが、それは自らの煩悩によるもので、自分が優れていることを証明し、衆生に羨望や崇拝されたいためである。一方、多くの人は衆生の苦しみを見て、衆生の煩悩を解脱させる手助けをしようと発心しているが、智慧が限られており、自ら実証ができず、衆生をありのままに修行へ導くことができない。
発心に悪意がなければ、悪知識のレッテルを貼ってはならない。大多数の教えは、様々な面で衆生に利益をもたらすものであり、彼らが明心開悟していなくても、基礎的な仏法はこうした人々によって伝えられる必要がある。娑婆世界には、基礎から一歩一歩衆生を指導する真に明心証悟した菩薩がそれほど多くいるわけではない。智慧の大きな菩薩にはそのような時間と忍耐力がなく、彼らは一定のレベルの衆生を度脱する。証量の異なる菩薩は異なる根基の衆生を度脱し、菩薩の数はもともと非常に少ないため、大材小用にして菩薩の資源を浪費することはできない。
私たちはすでに仏法を学んでいるのだから、仏のように学び、言葉を慎み、すべての法師や教師を尊重すべきである。彼らが仏法を間違って説くことは避けられない。ただ仏のみが間違いなく教えを説き、すべての菩薩は仏法を間違って説く可能性がある。菩薩の智慧は絶えず増進していくものであり、増進というのは、過去の智慧は確かに不足していたということであり、教えにも誤りや漏れが生じる。もし智慧が増進した後の菩薩が善知識であるなら、以前は悪知識だったことになり、そう言うならすべての菩薩、等覚菩薩までもが悪知識だったことになるのだろうか?
実際に真に悪であるのは波旬だけである。波旬は仏の前で、末法の時代に仏教に混じり込んで仏法を破壊し、すべての衆生が解脱できないようにすると誓いを立てた。今や波旬は来て、善知識に偽装し、非常に善良であるかのように感じさせている。誰が波旬の正体を見抜けるだろうか?おそらく誰もできないだろう。波旬を見抜けない以上、どうやってある人物が善知識か悪知識かを判断できるだろうか?
衆生は無始劫の昔から煩悩の深淵に堕ち、自ら抜け出せず、皆、仏菩薩の威徳に頼って救済を求めている。もしある善知識と呼ばれる者が衆生の煩悩を消すどころか、故意に衆生の煩悩を増やし、衆生が絶えず世俗に貪着し、世俗の法に執着し続け、瞋心を増長させ、絶えず悪戦を繰り返すように仕向けるなら、その結果は衆生がますます自ら抜け出せず、生死に沈み、三界の煩悩から遠ざかるどころか、欲界の煩悩さえ消すことも軽減することもできなくなる。もし欲界を出る望みのある者がいれば、波旬は最も頭を悩ませ、魔宮にじっとしていられず、必ずその者を引き止め障害を設け、貪欲を生じさせ、瞋恚を生じさせ、様々な罪業を造らせ、その者を欲界、さらには三悪道に留まらせ、波旬の支配下に置く。したがって、ある人物が善知識か悪知識かを判断する一つの基準は、彼が故意に衆生に貪瞋痴の煩悩を植え付け、衆生に悪縁を広く結ばせ、悪業に縛られるようにしているかどうかである。そうすれば衆生は欲界や三悪道から離れることができず、波旬の子孫はますます増え、減ることはない。
悪知識は往々にして根本的に三宝を破壊し、仏教を混乱させ、三宝を根こそぎ引き抜き、衆生が真の三宝に依止するのを妨げようとする。波旬は巧みに衆生の心の中の三宝のイメージを壊し、巧みに仏のイメージを貶め、僧のイメージを貶める。そして衆生が真の仏法を学び修行するのを妨げる方法を考え、衆生が菩薩の六波羅蜜を学び修行し、戒定慧を学ぶのを巧みに阻み、すべての衆生が実証できず、真に我見を断ち、真に明心することを不可能にする。そして故意に衆生に大妄語の業を造らせ、誰もが自分こそ真の菩薩であり、他人は皆魔の子孫だと思うように仕向ける。そうすればすべての衆生は悪業に陥り、解脱できず、波旬は満足し喜ぶのである。具体的な内容は首楞厳経の五十陰魔の部分に照らし合わせてほしい。
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