衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年08月09日    金曜日     第3開示 合計1796開示

異なる果位にはそれぞれ異なる功徳の受用があります

法身を活かすためには、五蘊を我とする邪念を滅し、五蘊の我を立てなければ、法身は容易に発見される。しかし法身を探求する過程において参究の念があり、世俗の貪瞋痴の念を抑え伏せ、このように努力して修行すれば、いつか法身を見ることができる。

だが参究の過程を経ていない悟りは、果たして悟道と言えるのか、その結果はどうなるのか、仏ですら決められず、因果と閻魔が決める。死神こそが最も物事を明らかにし、権限が最大である。もし自らが証果明心の者であることを強く望み、聖人であることを強く願いながら、事実の真相を顧みないならば、これは依然として深刻な我執であり、「我は必ずこうあるべきだ」という思いこそが我である。もし真に我見を断って無我となり、真に明心して五蘊が空であることを証得したならば、自らの解脱した心を充分に示すべきであり、自らがどの果位にあるかは重要ではなく、関係もない。無我ならば果も無く、我あってこそ果がある。

ある者は言うだろう、我見を断つことと明心は共に初果であり、初果は煩悩を断っておらず、煩悩は凡夫と同じで解脱の功徳はないと。では我見を断つことと断たないことの違いは何か?初果を証得しても解脱の功徳・受用は微塵もなく、明心して如来蔵を証得しても解脱の功徳・受用は微塵もなく、凡夫と変わらない。では何を果徳と呼ぶのか?全ての果には徳があり、証果後に果徳が無ければ、それは単なる名称、名相に過ぎず、何の意味もない。この名称がたとえ仏から与えられたものであっても、元から存在する不生不滅のものではなく、故に実質的な意味もない。しかし実証と妄語には、それぞれ因果がある。

真に修道を始めた時点で一定の功徳・受用があり、三十七道品を修める過程においても程度の差はあれ功徳・受用がある。ただその時は解脱の功徳・受用はなく、我見を断たなければ解脱はない。しかし我見を断ち明心した後は、程度の差はあれ解脱の功徳があり、初果には初果の解脱徳、二果には二果の解脱徳、三果には三果の解脱徳、四果には四果の解脱徳がある。煩悩を断つのは三果以降のことだが、初果の者の煩悩は凡夫とは大きく異なり、学仏者が修道する過程における煩悩は、修道を始めていない者と比べても一定の違いがある。そうでなければ学仏修行に何の意味があるのか?

それほど多くの者が果を好むのに、なぜ事実を重んじないのか?そこには深刻な我と我執が作用しているからだ。たとえ仏が特に果を与えたとしても、自らの徳がその果に相応しなければ、実際には真に証果していないのに、自らがその果を非常に気にかけ執着するならば、それも我見・我執であり、依然として我である。このように偽りの果を得て、心から喜び、至る所で宣伝し、威張り散らすのは、我執が依然として重く、生死を出られない証拠であり、自欺欺人と言う。

真の修行者は、どんな果も気にせず、自らの心に変化があるかどうか、真に解脱したかどうか、修行に功徳・受用があるかどうかを重んじるべきである。もし真に功徳・受用があれば、たとえ仏が証明書を与えず、誰も自らの得果を認めなくとも、実際には自らに果と解脱の証量があり、解脱を得られる。逆に、もし自らに功徳・受用がなく、真の解脱の証量がなければ、たとえ仏が証明書を発行し、誰もが恭敬して大徳・羅漢・菩薩と称えても、実際には自らは依然として凡夫であり、生死の業障の中にいる。

各人が学仏修行で求めるのは真の解脱、真の道業であって、虚栄ではない。虚栄的なものは頼りにならず、もたらすものも虚栄に過ぎず、あたかもシャボン玉のようである。我々はシャボン玉の美しさに目を奪われてはならず、泡影を好んではならない。実際を求め、真実を得るべきである。言うは易く、実際に行うのは難しい。証果ブームが過ぎ去った後でなければ、仏教界は実務を始められない。現在は猛烈に果と栄誉を追求する時期であり、真の修行者に出会うのは難しい。華やかさが褪せて初めて、真実が現れてくるのである。

——生如法師の開示
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