衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年08月10日    土曜日     第1開示 合計1800開示

どのような人が三悪道の業を免れることができるのか

真に我見を断ち、真に明心し三縛結を断った者だけが、三悪道に堕ちないことを保証できる。もし真に我見を断っていないのに、ただ心中で五蘊は無我だと考えるだけであれば、三縛結は断たれず、三悪道は免れない。弘法して衆生を度す心は貴いが、自分自身が修持を成就していなければ、衆生を生死から離脱させることもできず、自身の道業も妨げられる。一旦煩悩愚痴が現行すれば、直接三悪道に堕ちる。因果は一つには発心にあり、もう一つは事実による。

自らが度されていないのに先に人を度そうとする者は、菩薩心を発しているとはいえ、真の道行がなければ、その結末は恐ろしい。自らが三悪道を免れた後で、弘法して衆生を度すために出て、個人の道業を犠牲にするのであれば、それは問題ない。ある者は「私は我見を断った、明心したので三悪道を免れる」と言うかもしれない。しかし、真に我見を断ったか、真に明心したかは、自分自身が決めることでも、誰かが証明することで決まることでもない。因果にはそれなりの道理がある。

ある者は五戒を犯さず保てば人身を得られると言うが、無色界天の天人ですら八万劫の間心を清浄に保ち、わずかな悪業も造らなくても、命終の際に無始劫以前の悪業が成熟すれば、直接地獄に堕ちる。欲界天の天人も色界天の天人も同様である。今生で悪業を造らなくても、無始劫以前に多くの大悪業を造っており、極めて多くの悪業がまだ報いを受けていない。命終の際にそれらの悪業の因縁が熟せば、即ち業に随って流転し、自主能力は全くない。真に我見を断ち三縛結を断って初めて、三悪道の業を消滅させられる。しかし、もし再び大悪業を造れば、依然として三悪道に堕ちて報いを受ける。

——生如法師の開示
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