普段から心を降伏させず、貪りの念が絶えず、瞋りの念が絶えない者が、臨終に一切を捨て去り、一片の染まりもなく、一片も持ち去らず、清らかに無執着のまま極楽浄土に往生することなど、果たして可能でしょうか。
真実を申し上げましょう:極楽浄土への往生は、我見を断つことよりも難しいのです。臨終の一念に娑婆を思い、一念に未練を抱き、一念に忍びず、一念に瞋るならば、一生をかけた修行もただ善根を植えるのみで、極楽浄土など望むべくもなく、再び娑婆世界で生死流転を繰り返すことになります。人間として再生することさえ難しいのです。非想非非想処天の心が清浄であろうと、臨終に悪業の縁が熟せば地獄に堕ちるのです。ましてや欲界の人間界には悪縁が蔓延り、臨終は普段の主観的な思い通りにはなりません。時至るを予知する者でさえ娑婆に留まるのは、ただ衆生のため、法を示すためであり、己がためではないのです。ましてや他の状況では、怨親債主が様々な方法で絡み合い、善縁も悪縁も現れて、誰が解脱できましょうか。
極楽往生が容易でないと言うと、不満に思う者もいます。現代人が如何に念仏を称え、どのような心で念仏し、どのような願力を抱き、どのような目的で極楽を目指しているかを見れば、今の念仏者に往生の可能性があるか分かります。浄土聖賢録を開き、古人の念仏の在り方を学び、現代の念仏者と比べれば自ずと明らかでしょう。極楽を求める者の根器が劣るなどと言う前に、禅で明心見性を目指す者たちの根器はどうでしょうか。五戒を守ることさえ困難で、精進料理すら満足に口にできない状況では、他のことを論じる余地などありません。
全て阿弥陀仏の引き取りに任せれば物事は簡単だなどと、一仏で全ての衆生を済度できるなら、十方諸仏は必要ないではありませんか。そんなに都合の良い話がありましょうか。一声の念仏で極楽に至り、成仏を待ちながら、臨終には片手で極楽の阿弥陀仏に縋り、片手で娑婆の怨親債主を引き連れて——そんな形で成仏できるとお思いですか。
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