一つの如来蔵は一つの衆生に対応し、一つの衆生を生み出すため、如来蔵はまた衆生界とも呼ばれる。心経には如来蔵は不生不滅であり、衆生界は不増不减であると説かれている。不増不减とは変わらないことであり、不生不滅とは永遠に生じる必要も滅することもないことを意味する。したがって、如来蔵の数は永遠に固定されて変わらず、しかも無限に多い。衆生があまりにも多く、如来蔵があまりにも多いため、数えきれないほどであることから、無量数と言われるのである。
これほど多くの如来蔵がこれほど多くの衆生に対応しているが、果たして衆生は全て救い尽くされるのだろうか。衆生界がこれ以上増えず、仏菩薩がますます増え続ける限り、衆生はいずれは全て救い尽くされる。数が多くてもいつかは救い尽くされる日が来るが、その時間は定まっておらず、無限に長遠で、不可説不可説の無限の長さである。全ての衆生が仏となった時、救うべき衆生は存在せず、諸仏が世に住むことも必要なくなり、意義もなくなるため、おそらく皆涅槃に入るであろう。諸仏にはわざわざ事を構える必要はなく、十方世界も存在する必要がなくなる。最後に仏となる衆生たちの修行は非常に労力が少なく、一尊の仏が一人の衆生を護持し、修行はロケットに乗るかのようである。最後の一群の衆生はもはや悪業を造る機会がなく、無明の業種が非常に速く消滅するため、衆生を救うことなく仏となる。なぜなら、無明がなくなった時点で仏となるからである。
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