衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年08月11日    日曜日     第1開示 合計1806開示

甚深なる禅定において如理に思惟し観行を参究することによってのみ、仏法を実証することができる

実に、至る所に、目に入るのは青々とした山々で荒れた草はない。一本の茎、一枚の葉、一筋の草、一本の糸さえも、実在して虚ろなものはないが、その痕跡はどこにもない。人々の中を千度も探し求め、突然振り返れば、灯火がかすかに揺れ、至る所に、どこに在りと言えようか。言葉も出ず、かつては心も目も見えず、今や目に映るのは金色の光ばかり。これが悟りを開いた者の感慨である。

証果と明心の条件が整い、因縁に遇えば、どんな因縁であれ、証果と明心を成就できる。もし仏の説法に遇えばなおさら証果と明心見性が叶う。仏の威徳と加持力は非常に大きく、仏の説法の法会がもたらす磁場効果は極めて大きい。ましてや仏在世の修行者は普遍的には深い禅定を得ており、心は清らかで、出離心を持ち、煩悩はわずかであり、善根と福徳は厚い。ゆえに法を一度聞けば、仏の音声に従って観行し思惟し、たちどころに証果と明心を成就するのである。

私たち末法の時代の衆生は仏在世の衆生とは比べものにならない。善根は浅く福は薄く、心は浮ついて落ち着かず、禅定を得ていない。仏法がどれほど細かく説かれても心に入らず、真に実証できる果位など何もなく、せいぜい理解する程度で十分である。まさに衆生が普遍的には禅定を得ておらず、禅定を具足できないがゆえに、「禅定を修めずに直接仏法を観行できる」という説が現れた。しかし禅定がなければどうして観行の能力があろうか? いったい何を観行できるというのか? どれほどの間観行できるのか? どの程度まで観行できるのか? 各自で試してみるとよい。禅定を得る前の観行と得た後の観行では、その効果の差はどれほどか。雲泥の差と言え、本質的に全く別物である。

一つの法義について、禅定を得た状態で思惟するのと得ていない状態で思惟するのとでは、天と地ほどの差がある。ゆえに多くの人が仏法を思惟しても真に理解できず、誤解や勘違いが多く、真実の義を全く理解できない。実際に証得し現量で観行しようとすれば、それはあまりにも困難である。それでもなお多くの人は自分の理解力を過信し、すぐに経文の一節を引用して自説の根拠としようとする。実は経文の意味と自説は一致せず、自ら多くの誤解をしていることに気づかないのである。

経典を研究する者の多くは、経典の真の義理をありのままに理解し尽くせず、それでいて自分はよくできると思い込んでいる。実のところ仏法は研究して導き出せるものでは全くなく、深い禅定による如理の思惟・観行・参究によって初めて真に理解し真に実証できるのである。研究では実証できない。

ある人々は往々にして、仏典に「衆生が仏の説法を聞いたその場で証果と明心を得た」と記されているのを見て、それらの人々は禅定を修めずに直接証果したように思い、どうやら法を聞きさえすれば、少し思惟するだけで証果でき、わざわざ禅定を修める必要はないかのように錯覚する。この誤解は甚だ大きく、説法を聞いたその場で証果した人々がすでに禅定を具足し、善根福徳が厚く、因縁を待つばかりであったことを知らない。仏の説法というこの上なく殊勝な因縁に遇えば、当然ながら極めて容易に証果と明心見性が叶うのである。

これらの人々は証果者の最終結果しか見えず、証果者がどれほどの修行の道程を歩んできたか、仏の説法を聞く前にどのように精進したか、どのように発心し行持したか、どのように努力して禅定を修めたかといった必要条件を一切見ず、専ら最後の証果という部分だけを切り取る。これが最も深刻な断章取義である。

現代人は浮ついて近道ばかり探し、簡素で直接的であればあるほど良いとし、仏が歩んだ道すら歩もうとせず、自分の方法が仏よりも実用的で直接的だと思い込み、あれほど苦労する必要はないと考える。はたして凡夫が仏より優れ、仏よりも智慧があると言うのか? 仏の修行は回り道ばかりで、自分が歩む道こそ最も直接的で、基礎を築く必要もなく、いかなる代償も払わず、苦労して禅定を修め自心を調伏する必要もなく、研究するだけで大きな成果を得られるというのか? 痴人の夢物語である。研究によって得た果は紙で糊付けしたようなもので、風が吹けば散り壊れ、火に遇えば溶けてしまう。今の世には偽りの果が多すぎ、押されているのは大根の判子のようなもので、風の吹く音にも耐えられず、死後の果報は自らが知るのである。

衆生は無明と業力の違いによって異なる果報を招感し、異なる正報である色身と依報である生存環境を得る。業報が終われば、再び別の業報に入る。業報が異なるため、色身が異なり、脳の組織構造が異なり、顕れる智慧が異なり、行為の現れが異なるのである。

——生如法師の開示
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