夜中に眠りに就いた時、身体に冷たさの接触が生じると、その後、身識と意識が生起して冷たさの問題を解決します。夜中に眠りに就いた時、身体に痛みの接触が生じると、身識と意識が現れ、痛みの接触を感受し対処します。なぜ意識は現れなければならないのでしょうか。もし意根が冷熱や痛みを知覚できるのなら、なぜさらに意識が生起する必要があるのか。その根本的な理由は、意根自らが問題を処理解決することができないからです。
六識が存在しない状況下では、それらの心の働きは全て意根の心行です。六識が極めて微弱な状況では、それらの心行もほぼ意根の心行に属します。植物状態の人間を観察してみましょう。植物状態の人は苦痛を感じているでしょうか。植物状態でいたいと望むでしょうか。ベッドに横たわり続けたいと思うでしょうか。食事の際に食べる意思があるでしょうか。最も親しい人を見てどのような反応を示すか。これらは全て意根の心行と覚受を説明するものです。
昏睡状態にある時、意根が昏睡を望んでいるかどうか、どのような反応を示すか、これらの表現から意根の心行を観察できます。もし昏睡中に意根が捨受であれば、意根は如来蔵のように無関心でいられるはずであり、そのまま昏睡を続けるでしょう。しかし身体が少しでも回復すると、意根は六識を生起させ、五蘊の機能を促します。これは意根が昏睡を望まず、昏睡に甘んじていないことを示しています。なぜ昏睡を望まず、甘んじず、好まないのでしょうか。昏睡中は第一に快適でなく、第二に五蘊の活動がなく無為であるため退屈を感じ、退屈もまた苦受です。昏睡中に快適さを感じるなら、意根は当然昏睡状態を維持するでしょう。座禅で入定した際に起座を望まないのは、意根が快適さを感じていることを示すのではないでしょうか。もちろん意識が比較的清明で入定の快適さを感じるなら、静坐に執着し、起座を望まなくなるでしょう。
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