衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年08月12日    月曜日     第1 回の開示 合計1811回の開示

七識の三量

七識心による六塵の了別は、三量に分かれる:現量、比量、非量である。

現量の了別とは、現在の、現存する、運行中の、存在している、実際の、実法を了別することで、仮想のものではなく、偽りの法ではない。

比量の了別とは、二つ以上の法を相互に比較する方式による了別であり、事理を確定するには必ず参照物が必要で、そうでなければ弁別できない。これにより比量の了別は智慧が不足しており、大いなる智慧を必要としないことが分かる。一方、現量の了別には参照物がなく、完全に智慧によって当下了別する。

非量の了別とは、現存しない、現前しない、実有でない、想像の、虚構の、幻想の、虚法、仮法、親縁でない、親証されない、幻有の法を了別することである。この種の了別には二つの極端があり、一つは豊かな想像力を伴う智慧型、もう一つは際限ない純粋妄想型であり、現量の智慧は現れない。

五識は全て現量の了別であり、現前する実有の法を了別する。五識は想像も比量もできず、現在の法がどのようなものであれば、そのまま了別し、幻想を抱くことができない。ただし五識にも了別を誤る時があり、色法上の色彩を見誤る場合がある。例えば赤を緑と見たり、男声を女声と聞いたりするのは非量の了別であり、眼根などの五根に問題が生じた時にのみ起こる。

意識は現量・比量・非量の了別が可能で、了別範囲が広く、虚法仮法も了別できる。想像・幻想・比較思考が可能である。意根の了別は深密で知り難く、意根の六塵に対する了別智慧は確かに細やかさに欠け、二つの法を相互比較して了別することができないため比量がない。意根は想像も幻想も根拠のない推測もできず、これらの非量了別を行えない。

意根は現量のみで、現存する実有の法を了別するが、常にこれらの現前の実法を誤って認知し、一切の法を我と我所と見做す。実際にはそうではない。認知が全て誤りで非実際的であるならば、ある意味では非量であり、自らが認める非実際的で事実に合わない妄想境界である。妄想は即ち非量である。現量は事実に合致し、真理に適うものであり、真の現量了別は第八識のみが有し、比量・非量の微塵も混じらない。了別するのは諸法の真実の相貌であって六塵境界ではなく、世俗界ではない。意根の想うことは全て真理ではないため、三大阿僧祇劫の修行を通じて徐々に真理を認識・実証させ、その妄想非想を現量の智慧に変え、非法の執着を除去し、一切の法を真の所有者に帰属させ、一切の法を占有しないように意根を改造し尽くす。これにより一切の負累を消滅させ、一切の法の束縛から完全に解脱し、仏の宝座に登る。この時、意識の使命は終了し、もはや何らかの法を学ぶ必要もなく、意根を熏染させる必要もなくなる。

意根が非量了別できないならば、意識の非量了別はどのように出現し持続するのか。ある事柄が意根によって決定された後、意識が具体的に実行する際に非量の形式を採るため、意根は意識の了別内容を現量として思量択択する。例えば仏光が自らの色身を照らすと観想するのは非量であるが、観想が成功すれば色身が実際に健康を改善し現量となる。もし真に仏光を観想し、仏が実際に光明を放って自らを照らすならば、仏光の観想は現量となり、色身の健康も現量となる。観想は意根が択択し、意識が実行する。観想中は意識の主観的想像であり、定力が深まると、意識が観想する所に意根が随って了別し、意根は意識の観想内容を現前境界として了別する。これは現量の了別に属し、意識の観想は非量の思惟想像であるが、その結果が如実に現前すれば全て現量となる。

——生如法師の開示
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