すべての人は今生において苦難、悩み、波乱、挫折を経験してきたが、意識は依然として覚醒せず、仏法に遇っても、仏が苦諦の真実を説いたにもかかわらず、依然として目覚めず、苦に執着し、離れようとしない。意識ですらこのような状態である。ましてや意根はなおさらである。衆生の愚痴と無明はこのようであり、どれほどの苦難を自ら経験しても反省せず自らを救おうとせず、仏が救いに来ても受け入れない。無明が薄く、善根が深く、煩悩が軽い人は煩悩に遇えば解決や回避の方法を考えようとするが、愚痴な人は耐え続け、深みに陥っても自ら抜け出そうとしない。懲りず性である。
意識は自ら救いを知るか。もし意識が知っているならば、仏陀が娑婆世界に来て苦聖諦を説く必要もなかったはずである。しかし仏陀が苦聖諦を説き終えても、末法の時代の劣根の者たちにとって何の役に立つだろうか。意識と意根のどちらか一つでも自ら救うことを知り、苦を知り、苦から離れるべきだと悟っていれば、仏陀に救ってもらう必要もない。しかし今、仏陀が再び自ら来られても効果は薄く、衆生の無明はあまりにも深く、愚痴は救いようがない。
『地蔵経』にはこう記されている:仏は閻羅天子に告げられた「南閻浮提の衆生はその性質が剛強で、調伏し難く、従わせ難い。この大菩薩は百千劫の間、繰り返し繰り返しこのような衆生を救い、早く解脱させようとされる。この罪報を受ける者は大悪趣に堕ちるほどであっても、菩薩は方便の力をもって根本の業縁を抜き取り、宿世のことを悟らせる。しかし閻浮提の衆生は悪しき習気が重く、救い出されてはまた迷い込む。菩薩を煩わせ、長い劫数を経て救済される。閻浮提の衆生は悪しき習気が重く、地獄から救い出されてはまた入り、出ては入りを家に帰るかのように繰り返す。菩薩を煩わせ、長い劫数を経て救済される。菩薩たちは皆、十分に忍耐強い。それなのに衆生は恥じることを知らない!なんと下劣なことか!」
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