もし大迦葉が音楽を聞いて自然に踊り出したとするならば、全ての衆生は音楽を聞けば踊り、音楽を聞かなくても踊り出すはずでございます。しかし現実には音楽を聞いて踊る現象は全ての人に起こるものではなく、普遍性を持たないため、踊りという行為は自然発生的なものではございません。これは歌舞を愛好する煩悩習気を持つ者にのみ現れる現象でございます。前世で踊りを好んだ者はその習気が深く根付いており、音楽を聞けば慣性的に踊り出し、意識では制御できぬものでございます。
習気は慣性とも申します。例えるならば車のブレーキで、既に制動をかけてもなお前へ進むが如く。また氷の上を歩む時、足元が滑って既に歩みを止めたにも関わらず前へ滑り続ける様にも似ております。これを現行の煩悩は断じたれども習気はなお現前し、自覚なく現れると申します。車の速度が速ければ速いほど制動後の慣性力が強くなる如く、煩悩が重ければ習気もまた大きくなるものでございます。
大迦葉阿羅漢は煩悩を断じたれども煩悩習気は未だ断じておらず、前世の歌舞を愛好する煩悩習気により、今世音楽を聞けば自覚なく踊り出すのでございます。ましてや煩悩を断じぬ凡夫が歌舞を愛好する煩悩を持つならば、音楽を聞く時その煩悩と習気は一層強くなることでございます。音楽と舞踏への貪愛が甚だしい者は命終えた後餓鬼道に赴いて報いを受けるものの、習気のみが現行する場合は三悪道に堕ちずして報いを受けるのでございます。
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