なぜ仏様はあれほど慈悲深いのに、天上で悠々と娑婆世界の衆生が様々な苦しみに遭っているのを見ていられるのでしょうか。仏様はそれを見ていられるのでしょうか。
私の母が亡くなった時、ちょうど陽炎観を突破したところでした。何年も前から母の死にどう向き合うか覚悟を決め、心の中ではいつも「母とは何で構成されているのか、本当に母という存在は実在するのか」と考え続けていました。母の葬儀の過程で、全ての人の六七識の心を観察し、全ての人の心理状態を観察した結果、陽炎関を証得しました。一切の人々が私の心の中ではあのように空幻に映り、私はまるで行尸走肉のように全てに対応していました。心はやはり悲しかったのですが。
では、仏の無量の智慧をもって衆生を見るとき、衆生とは一体何なのでしょうか。宇宙世界、人事物理、これらは全て何なのでしょうか。衆生の色身は四大の微粒子であり、識心は識の種子に過ぎません。仏が衆生を見るとき、そこに衆生は存在せず、その事象や理もまた実在しません。これが第一の理由です。第二に、衆生にはそれぞれ苦しみを受けるべき業縁と業力があり、因縁が熟さない限り救っても無意味です。衆生が生死の海に漂流し、浮き沈みを繰り返すのを見守るしかなく、因縁が成熟した時に初めて救いの手を差し伸べることができるのです。
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